ため息またひとつ
絶望的に、人の顔を覚えるのが苦手だ。
いくつか「絶望的に」が付く苦手なこと、できないことがあるのだが、特にこの人を覚えられないことではしょっちゅう困るときがある。
まず、うちのシェアハウスは出入りが激しい。シェアハウスとはそういうものなのかもしれないが、とりあえずうちは最短一日という人もいる。まあ、それは家主に会いたいとやってくる人なので、私には関係ないのだが。
うちは徒歩2分圏内に3軒、家がある。家主の住む家は、最初の1軒目ということもあり、本宅と呼ばれている。私の住む家は住所の登記がないため、郵便物や宅配便は本宅に届くようにしてある。
昨日、注文したネコのえさが届いているのではと、本宅を訪れた。
ついでにうちのタッパなど持ち帰ろうと部屋へあがった。こたつから「お久しぶりです!」と声がかかり、「いや、こないだも言われたけど。あれ、別な人だったっけ?」なんて言いつつ、キッチンへと移動しようとしたところで足が止まる。
はて、誰だ?
こたつで誰かが寝ている。誰かわからない。でも、前回この位置に座っていた人に「誰?」と問うたら「こないだネコを見に行った、、」と返された。あ、そういえばそんな人いたなぁ。「いや、メガネだったからわからんかった」とごまかした。
今回は寝転がっているので、座っているときとは顔が違う。あのときの人なのか、それとも別なあいさつしたことある人なのか。散々迷ったあげく、「そこに寝てると顔が乾燥しちゃうよ」と言ってごまかした。ヒーターの温風が吹き出すところに頭があって助かった。
人の記憶から消えるとき、二度目の死を迎えると言われるくらい、人は自分を覚えていてほしいと思う。「お久しぶりです」「誰だっけ?」という会話は、相手を悲しませる。
あなたにとって相手はひとり。でも相手にとって、あなたは大勢のうちのひとり。それは一対一で対面したとしても、その日あるいはその週出会った初対面の人のうちのひとりにすぎない。だが、そう割り切れる人は多くはないだろう。
しかも私は、二度三度会ったとしても「誰?」と言ってしまう。だって、ひとに興味がないから覚える気がないんだもん。開き直ってしまうけど。
よほど特徴があるとか、なにかエピソードがあるとかしないと、記憶に残らない。映像記憶型なのだが、印象に残らない人は引きの映像で小さくて、ピントも別なところにあって姿形はぼんやりとしている。誰もが主役になりたいだろうが、私の映画の中ではワンシーンといえどエキストラになってしまう。
人を人として覚えることができないが、ものと結びつくと覚えられる。
スーパーでレジ係をしていたときは、買いものの内容でお客さんを覚えた。これ、数日前にも売れたな。あれ、この人だったかも。あ、この人、またこれ買ってる。この商品=この人、のように。
地元のテニス界に身を置いていたときは、ラケットと車が鍵だった。ウィルソンのフェデラーモデルを使ってるのは、あの人とあの人。バボラピュアドライブでフォアのストロークが強烈なのはあの人、バックハンドストロークがきれいなのはあの人。あの人はBMWミニの緑、あの人はヴェルファイア。シューズはアシックスでラケットはHEADはあの人、というふうに。
ラケットとシューズと車に詳しくて助かった。
今朝は会社のあるビルの入口で、あの人どうだっけ?と思っていたら「おはようございます」と声をかけられた。ああ、やっぱり遠くのデザインの島の人であったか。一度短時間の仕事をしただけなのに、よく覚えてるなぁ。私は声を聞くまでわからなかったであるよ。
会社の人の8割は、社内ですら同僚なのか判断できない。おそらく、社外であれば全員わからないだろう。かつ、声をかけられても、誰だかしばし考えなくてはならないと思う。
シェアハウスの住人も、比較的仲よくしているなおさんや本Dでさえ、たとえば図書館ですれ違っても気づかない。そうそう、本Dには声をかけられたっけ。なぜやつは気づくんだ?
春、お別れの季節だからというわけではないだろうが、住人の何人かがここを去る。入れ替わりのように、新しい住人も複数入るようだ。おそらく。知らんけど。
また「誰?」という日々が始まる。
特徴ありありな人だといいなぁ。それでも覚える自信ないけどさ。