ファッションデザインという轍を選ぶ
「いつからファッションデザイナーを目指していたか」
「ファッションを好きになったきっかけは」
聞かれるたびに期待を裏切るようで申し訳ないのですが、明確にファッションデザイナーになろうと思って人生を過ごしたことはありませんでした。
今思えば反抗期のひとつでしたが、私は高校を中退し、1人暮らしを押し切る形でしていました。
クッションフローリングのワンルーム。
玄関、トイレ、キッチン、リビング、お風呂が長方形に一列並んだ空間を、扉で区切っただけの不便な家でした。
アルバイトに明け暮れながら、友人とすすきので遊び、起きたい時に目覚め、眠りたい時にソファで眠る。
窓外、スーパーの屋上から漏れる光が朝焼けなのか夕焼けなのか分からない時間。
家族や学校から隔絶された生活は、今までで一番「生きている」と感じていました。
しかし20歳になった節目に茫漠とした恐怖を抱きました。
「このまま人生を終えるのか?」
小学生のときは漫画家、中学生のときは小説家、高校生のときはプログラマー。母親の影響もあったと思いますが、何かを作りたい意欲は幼少の頃からありました。
そして、20歳の私は「何かをやらねば」という気持ちに急かされるようになりました。「何かをやりたい」というよりは「やらなければならない」というニュアンスです。
当時、私はファッションが好きでした。
デザイナーズブランドを好み、中国や台湾のブランドにむこうの言葉でメールのやりとりをしながら購入するほどでした。
この2つの恐怖と嗜好が交差し「服を作ってみたい」と思ったことが服飾を選ぶきっかけでした。
何年振りというブランクを抱えて服飾学校に入学し、洋裁を学びました。
「自分の服を作る」=「自分のブランドをやる」という目標はあるものの、なぜ自分の服を作りたいのか?という「動悸」まではまだありませんでした。
最初は初めての洋裁やクラスメイトとのギャップに苦しみましたが、もう後戻りは出来ないというプレッシャーや、卒業してからはファッションで食べていかなければならないと言い聞かせながら自分を奮い立たせていました。
「なぜ」、服を作るのか。
入学してからずっと考えていました。
それはひたすら変わった服を作る人や、自分が好きなものだけを詰め込んだ服。オリジンやストーリー、メッセージのないデザインをする学生と一緒になりたくないという心理から、コンプレックスのように抱え、自分の中に燻っている「怒り」に気付くのです。
ミレニアム生まれ、急速にインターネットが普及し、今ではあたりまえにインフラが整い、情報が氾濫する時代。寛容と平等と正義を問われる多様性の世界になりました。
怒りの正体は「社会」。
そこから、「かたちのないもの」という服作りへと繋がりました。
私は新しく服を作ること、新しくブランドを立ち上げることは「悪」だと考えています。
何故なら服はもう販売されているからです。
しかし、それでも「服」で表現したいものがある、「服」でないと伝わらないものがあると信じ、ファッションという生き方を選びました。
ファッションの世界は、先人たちの轍がくっきりと残っています。
新しいことや、唯一無二の作家性を見出すのはとりわけ難しい。
糸、生地、染め、加工、パターン、ソーイング、服。
モデル、ヘアメイク、スタイリング、フォト、ビデオ、グラフィック。
ショーモデリング、ライティング、サウンド。
他にはVMDからタグ、梱包資材、チャネル。
ひとくくりに「ファッションデザイン」と掲げても、人によって範疇とするものがこれほど変化する職業も珍しい。
私は分かりやすい肩書きとして「デザイナー」と紹介されますが、名刺には書いていません。
何者かと尋ねられたら、「服を作っています」と答えます。