死について考える Part.6
今日は哲学について少し記事を読みまして、それに感化されまして、ええ。
誰に対して、何が流行るのか、自分は何ができるのか、そういうことではなく、自分が何が好きなのかで物事を見ること。今日1番、いや、ここ最近で1番印象に残った考えでした。
死と何が関連するのか、それは今書きながら考えるとして、というかここで吐き出していくとして。死ぬまでにやりたいことをこの前まとめたけど。あれは何か違くて、この、好きなことが大切なんじゃないかなって。今、本当に好きなことやれてますか?と。最近、ゲームやっててもつまらなくなってきてたりするんですよね。
ゲームしかやることがない時にやるゲームはつまらないという言葉
これまた最近すごく感銘を受けた言葉で。何かこれだけで記事書けそうですが。まー、たしかに、ゲームしかやることがないときにゲームをやっても楽しくないんですよね。ゲームって、というより、娯楽全般は、大変だったことをやってその見返りにやるから楽しめるんじゃないかなって。休日が嬉しいのは平日があるからと同じ理論ですよね。毎日休みは最初は嬉しいかもしれないけど、後々キツいです。大学の時に2ヶ月の夏休みがあったんですけど、バイトもしてなくて、本当に何もやることがなくて、死にそうなときがありました。死ぬわけじゃないですが、虚無以上の虚無です。何もやることが本当にない。人生がつまらなく感じるときでした。友人はいましたが、大学は遠く、友人の住む場所の遠かったので、会うには1時間ちょっとと交通費往復2000円とか。ネットでやりとりはしてましたけど、今ほどネットは盛んではなかったので。それに1年でしたから。そこまで仲良くかと言われると。もちろんその後はすごい仲良くさせていただきました。
死ぬまでこんなに暇ならもういっそのこと死んでしまいたいとも思いました。永眠がどれだけ良いことかと。だってやることがないのだから、後悔などありません。そういう時を過ごして。改めて、今、なぜか、生きることへの焦りを感じている。それは、あのときの、暇な時を思い出してなのではないだろうか。あの暇な時に戻るまいと。暇すぎると死んだも同然だから。つまり、死ぬまいと、今必死に考えているわけです。
では、暇じゃなくせばいいのではないか。たしかにそうです。それは何で埋めるのか。ゲームなのか。でも、先程言ったとおり、ゲームしかやることがないときのゲームはになってしまう。では他のことを見つけなくては。強制されるのではなく、自分からやりたいことを。それは好きなことなのではないだろうか。では、好きなことを列挙していこうかと。
ああ、なんと10分は短いものか。また明日、覚えていたら、書こう。好きなことについて。いや、死についてだったな。