死について考える【65日目】
ここまで来て、明日死んだらというのを再度考えていきたいわけですが、もっと真剣に考えなくてはならないなと感じました。
というのも、今までは、あくまで想像上のとばかり思っていて、そこまで真面目に考えていなかったわけです。
どうせ死なないからと、そう決めきっていたわけです。
でも、本当はわからない。最近は、豪雨や地震、コロナなど災害ばかりです。富士山だって、いつ噴火するかわからないし、関東大地震もいつ来るかわからない。まだ7月始めですが、8月までに台風だって来るわけで、なんなら、太陽が突然スーパーフレアを出して地球が一瞬でなくなるかもしれない。隕石が地球に落ちて地球が崩壊するかもしれない。そういう状況で、実は死は隣にあって、ギリギリのところで合わずにいて、そういうのがもし、明日来ると考えたら、本当に日常を過ごせますかと、そう考えるわけです。
日常は過ごせないのではないかと考える。それは必ず非日常になるのだから。
例えば、両親とじっくり話すなんてことは私にとっては非日常だ。でも、おそらく、そういう状況になったら、話すだろう。
本当に明日死ぬことになったら、過去のことを振り返る時間を取って、昔好きだったものを眺めたり、できるなら、昔やっていたゲームをもう一回プレイしたり、それこそ家族や友達と話したり。隕石などで全員が全員そうなったら、なかなか友達との時間を合わせられないと思うけれど、自分だけなら時間は取れるだろう。そのあたりの状況にもよるなと、改めて感じる。すべてが上手くいくとは限らないのだから、話せない友達もいるだろう。それは仕方ないのことなので、心に秘めておく。
周りを散歩もするだろう。自然が好きなので、自然の多い場所へ。森に囲まれて、静かな時間を過ごす。
瞑想になるのかな。死ぬ前なのに瞑想をしてどうするのかと思うが、しかし、それも自分のやりたいことの一つなのだから、仕方ない。
つまり、いま、自分に足りていないのは、そういう自然に囲まれて心をスッキリさせることなのではなかろうかと。たしかに、こうやってNoteを考えている時などそうだが、考えが次から次へと頭へ雪崩のように押し寄せて、それが心に重荷となって押し寄せる。それがネガティブを引き起こす原因なのかはわからないが、かなり心労しているだろうに。
それを自然の元で解放したいわけだ。どれだけ気持ちの良いことだろう。
人によってはそれに対して全く何も思わない人もいるだろう。私は逆に、人の作った物に対して何も思わない。歴史のある城を見ても何も思わないのだ。人によってはそれに感動し、それを好き好んでいるわけであって。
そういった自分の好きなことに携わるというのはとても大切なことであろう。
なるべくそういう時間が取れるよう努力したいものだ。
都会の喧騒たる街に揉まれてばかりでなく、田舎暮らしも良いだろうということだ。
明日死ぬとして、今の生活はあまり満足行けていないものであろう。つまり。
であれば、それを打開すべく動くが筋ではないか。そうであろう、孔明よ。
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