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死について考える【81日目】

まだ死ぬのは先として、あと100年近く生きるとして、それまでにやりたいことはないのかという話だ。

あるだろう、もちろん。しかし、それに向けて今活動しているかと言われたらしていないわけだ。これがずっと続くと、結局やりたいやりたいというだけで、何もできないでいることになるだろう。そして、後悔するんだ。

死までの時間が長いからこそ、どうしてもダラけてしまうのはよくない。小学生の時のように、時間が無限にあると考えてしまえば、それはそれは遊びへと消化するだろう。勉強なんてものは親や先生に強制されてやっていたようなものだ。中学生くらいでも同じことが言える。高校生でも同じであろう。常に遊びへと、娯楽へと、短期間のストレス発散へと、小さい快楽へと、脳が誘導されてしまう。明日死ぬとしたら、そういった娯楽をするかと言われれば、時間を制限してやるだろう。

そう考えるならば、やはり、明日死ぬかもしれないと思って、今日を一生懸命生きるべきなのではないかとも感じるわけだ。前回だったかそういう話を議論して、今回はその続きになっているわけだが。

どちらかを選ぶというのが間違っているのかもしれない。どちらもいいところと悪いところがある。そのいいところだけを取り出して実行すればいいのではないだろうか。都合よく抜き出せるかは疑問だが、やってみる価値はあるし、むしろ、それで行けるならそれで行きたい。

その良いところ、時間がない場合は、自制して、しっかりとやることを分配すること。時間がある場合は、将来を見据えて、物事を進めること。思えば、将来を見据えれば、自然と自制できる気もするが。やることがわかっているならば、遊んでばかりいないでやればいいのだから。しかし、それができていないのが現状である。

なぜできていないのか。それは見据えることが未熟な段階にあるから、いや、そもそも、そういったことを考えてすらいなかったのかもしれない。綿密な計画を考えていれば、今なすべきことがわかる。それができていない。それをまず考えることが重要であるだろう。

だからこそ、もう一度、死が100年後に来たらと話始めたのか。再認識するために。

今日の本題にまだ入っていないくらいに遠回りしたが、別によろしいだろう。再認識しなければならないという状況は、つまり、忘れているということなのだから。

これまで何十日も書いてきたが、死について、内容をほとんど忘れている。忘れたところで問題などないが、せっかく教訓のようにしたのに忘れてしまってはもったいない。

どうしたら忘れないでおけるか、など話してるとキリがなくなりそうだし、あと少しで10分経つので、またこの話をするだろうが、長く生きた時の計画をしっかり決めることをすべきというのが今回の記事だったのではなかろうか。さて、スケジュールをたてるのは苦手だが、その重い腰をあげようぞ。

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