ツレの障害年金の手続きを代理人として頑張った忘備録。
こんにちは。「田中しい」と申します。
この名義は、この記事をまとめるにあたって作成した、限りなく適当な名前であって、この記事をシェアする予定のアカウント等には一切関係なく、
しかしそれでいて、どこか私を表すものとしてたった今作りました。
今回この忘備録をまとめるにあたり、基本的にはノンフィクションでお送りいたしますが、
ところどころフェイクをいれることをどうかお許しください。
表題について
そのまんまの意味です。
ツレがうつになりまして。ってのがありましたが、
うちの場合は「ツレが元々うつでして」「でもって私も元うつでして」。
今回、様々なことが重なった結果、
ツレの障害年金の申請を、代理人として行いました。
この忘備録が、これから障害年金の申請を自力で行うことを考えている方、
家族や恋人のために代理人として申請を行おうとしている方、
そもそも自分自身が障害年金なんて…と思っている方、
単に私があがいて走り回ってた姿を見ていたフォロワーさん各位に届いてくれたらいいな、なんて思っています。
私とツレについて。
まずはこれについて触れておきましょう。
私:田中しい
煙草と音楽、白米でできた身体をしているアラサー。
元うつ病。10代~20代前半の約10年を精神科通院し過ごし、寛解。
現在は数年を経たのちに軽度のうつ病を再発中ながらも、
お薬でだいぶ楽なのでダウナー気味ながらせっせと働く社畜。
AB型。重度のカフェイン中毒。
うるさくて車高が低くてウイングがついている速い車が好きで乗ってる。
ツレ:ねむるさん
私よりそれなりに年下のツレ。
よく眠る子なのでねむるさんと勝手に命名。
17才ごろから精神科への通院を始め、現在に至る。
カフェインが効きすぎるのでコーヒーは1日に1杯まで。
私の運転する車の助手席は基本的にねむるさんの席なのだが、
ねむるさんの親友曰く「初めてあの車(私の車)に乗って現れたところを見たときは、こいつヤバイ奴と付き合い始めたと思った」。
請求を申請しようと思うに至るまでの流れ。
ねむるさんと私が出会ったときからねむるさんは精神疾患持ちだった。
それをわかったうえで私はねむるさんと交際を始めたのである。
ねむるさんはそれまで勤めていたアルバイトを辞め、失業保険をもらいながら長期療養中。
そんな中で出会い交際に至った私たちは、往復400キロという中距離恋愛(長距離恋愛?)であったこともあり、
気付けば私の家にねむるさんが転がり込むような形ですぐに半同棲へ。
紆余曲折あったものの、2021年4月末にねむるさんは本格的に私の元へ引越し、
私の一人暮らしの部屋であった狭い1LDKから2LDKの家へ引越し、
狭すぎたシングルベッドはダブルベッドになった。
ねむるさんは仕事を始めた。だがしかし。
さて、私は今の地に住み始めてからそれなりに長く、
基本的に正社員として企業に勤めることのほうが多い人生であった。
その中、ねむるさんも引越しを機に、失業保険の受給期間も切れたことから
就活を始める。
第一志望に落ちてしまったりと上手くいかないこともあったが、
なんとかアルバイトが決まり、ちょっとお祝いをしたりもした。
だがしかし、そのアルバイトも約2か月程度で退職。
仕事へ行こうとすると身体的不調がひどく、出勤できても早退するなどがあまりにも多く、
無理をする必要はない…と別のアルバイトへ。
だがしかし、そのアルバイトも徐々に行けなくなっていった。
家事等も決して得意ではないねむるさん、
いつの間にかフルタイムで働く私が家事をしてねむるさんをできるだけ送迎し、
不調のねむるさんを日々心配し、
貴重な一人で過ごせる休日が具合の悪いねむるさんを見守る日に変わり…。
このころ、正直私も少しずつ精神的に参り始めていた。
「こちらに連れてきたのが間違いだったのではないか」
「私がねむるさんにとって悪なのではないか」
「甘やかしてしまっているのか…それとも、もっとサポートしなければいけないのか?」
私自身も2021年は転職を2度するというすごい年になったこともあり、
だいぶ追い詰められ始めていたのだろう。
一番きつかったのは、私だけの稼ぎではねむるさんとふたりで生きてはいけない、ということ。
これが結果的に私の首も絞め、そしてねむるさんの負担にもなっていたのである。
お恥ずかしながら、私はアラサーにして実家を頼るという方法で資金繰りを行うこととなった。
何度も話し合ったし、ねむるさんも「がんばる」と何度も言った。
それでも行けない日のほうが増えていった。
ねむるさんの眠る時間が、異常なほどに増えていった。
障害年金の申請をしよう、と私が言った。
2021年10月末、ねむるさんは精神科(引越しを機に転院せず、月に一度実家への帰省がてら通院をしている)へ通院のために帰省した。
しかし高速バスから降車後、地元ともいえる地の慣れた場所でパニック発作を起こす。
迎えに来てもらったねむるさんの母親から、
「入院したら…?」
という言葉をもらった、ということを、私は知った。
ここで告白すると、私は「障害年金」のことを、このときすでに知っていた。
なぜなら、どうしてもねむるさんが仕事に行けない日が増えるほどに様々なことを調べて、たどり着いていたからだ。
それでもすぐにねむるさんに話さなかったのは、ねむるさんが仕事をする、がんばる、と言うそれに、どこか縋りたかった気持ちがあるのだと思う。
だが、ねむるさんは今限界だ、と、お母さんからの一言が私に決意をさせた。
そして、私自身もまた限界が近く、このままでは共倒れする。
そう思ったから、その日の夜、電話でねむるさんに話をした。
ねむるさん、
障害年金を申請してみよう。
そのあと、手帳も申請しよう。
こんなことをツレに言う日が来る人ばかりではないんだろうな、となんとなく今になって思う。
それでも、ねむるさんが嫌がれば、その気持ちを尊重するつもりだった。
もし入院となったら、手紙でもなんでもやり取りしてねむるさんを待つつもりでもあった。
私は、ねむるさんのパートナーとして、やれることの総てをやる、と完全に腹をくくった。
そのために、頼れるもの総てを頼って何が悪い。
使えるもの総てを使うことの、なにが悪だというだろうか。
「仕事はもうお休みしよう、いったんきちんと休もう」
「受給できるまでの期間は、頭を下げてうちの実家を頼ろう」
「ねむるさんも私も、楽になっていいんだ」
「なにも変なことじゃない。助けてもらうことは、なにもおかしなことじゃないんだよ」
ねむるさんは日常生活の状況や制度のあれこれを見るほどに、「自分に当てはまる」「できないことばかりだ…」と素直に頷く。
「もしこれが嫌でなければ、私と一緒に生きていこう。私が頑張るから、私についてきてほしい」
なんかもう必死だった。そんなことまで言った気がする。
ねむるさんが素直に「うん」と頷いてくれた。
この瞬間から、私とねむるさんの障害年金への道のりが始まったのである。
1:主治医への依頼
その翌日に通院日であったねむるさんだが、自分の口から上手に話せるとは思えない…とのことで
(ねむるさんは言語化がとても苦手なのである)
(我が家は言語能力と察しの強い私と言語化が苦手だが表情は豊かで無邪気なねむるさん、の構図で成り立っている)
仕事が休みであった私がねむるさんを迎えに行くがてら、約200キロほどのドライブで病院へと駆けつけた。
(ちなみにこの行きの道中に、私はねむるさんのお母さんに電話をした)
(私は、ねむるさんとこれからもずっと生きていくつもりなので、やろうとしていることも含めて、これから先も任せてください、と伝えた)
(ねむるは幸せ者、ありがとう、とお母さんが泣いてしまったことを、私はきっと忘れないだろう)
さすがの私も動悸がひどく、あとから聞いたが診察前の待合室で私は震えていたらしい。
しかし、主治医に「障害年金の申請をしようと思っています」と伝えると、
「え?あれ…手帳も、年金も申請してないんだった?」
「これだけ(病歴が)長いからね…うん、きっと大丈夫だと思うよ。診断書、準備すればいいんだね」
と、あまりにもあっさりとした医師の承諾が。
このあまりにもあっさりとした承諾は、正直なところ、私たち二人を心の底から安堵させた。
なんだろう…この表現の仕方はおかしいのかもしれないけれど
「あ、普通のこと、なんだな」
と思わされたのだ。良い意味で。
そんなに身構える必要なんてなかったんだ…むしろ、もっと早く動いていたってよかったんだ。
かくして、第一段階を、2021年10月末日、私たちはあっさりとクリアしたのだった。
2:市役所の年金課へ行く(初回相談)
2021年11月10日。
ねむるさんは絶不調で布団から出られず(ちなみに11月は本当に状態がひどく、ほとんど動けない日のほうが多かった)
私は自分の病院を終えたのち、ひとりで市役所の年金課へと旅立った。
(福祉課にも用があったんですよ…ねむるさんの自立支援の更新)
(ちなみにねむるさんは自立支援も存じておらず、元うつ持ちの私が教えたことがきっかけで使い始めた。どうしてこうも必要な人のところに必要な情報が回らない世界なのだろうか?)
年金課の窓口のお姉さんに「障害年金の請求について相談したいんですが」と伝えると、「あっ、少々お待ちください」と言われ、待たされる。
役所の窓口の方って正職員じゃない人ばっかりだもんなあ、とか思いながら待っていると「こちらへどうぞ」と奥の席へ通される。
すごいな、奥に通されるんだ…と普通に感心しました。
ちなみに、ねむるさんは17歳のころから精神科へ通院しているので、
20歳前障害というやつに該当。
そのため、年金事務所ではなく役所の年金課を訪れたという次第。
この20歳前障害、精神で申請する人はあんまりいないのかな?といろいろ調べてそういう印象。
(でも私ももし仮に寛解していなければ初診は14歳なので20歳前障害だったんだよな…とかなんとか思ったり)
現れた専門の相談員さんに、粗方の説明を済ませる。
それと同時に、私自身がここに至るまでにかなり障害年金のことを調べたことも。
それを踏まえて、相談員さんは必要書類の説明をしてくれた。
そして、これは不幸中の幸いなのだけれど、
ねむるさんの場合は20歳の誕生日前日が認定日。(20歳前障害のため)
この認定日前後3か月に通院していた病院での診断書が遡及請求には必要であり、
ねむるさんは一度転院しているのだが、再転院して当時の病院に現在通院しているのである。
そのため、どちらもその病院からの診断書であれば初診日を証明する書類は必要ない、ということ。
これは非常に朗報だった。
その前に最初にかかった病院はすでに5年以上前。
カルテが破棄されている可能性も高く、頭を悩ませるかもしれない…と思っていたのだ。
非常に優しい相談員さんで、いろいろと教えてもらいながら、そして話しながら何度も涙ぐんだ。
最後には「門前払いされなくて、よかったです……」と私はこぼしていた。
また一歩進めた安心感は、ここまで抱いていた不安の大きさの分だけ、
弱り切った私に染みるのだった。
3:様々な事実確認
さて、こうしてはいられない。
私は役所の年金課を出て、駐車場ですぐにねむるさんの通院する病院へと電話した。
こういうとき、結婚していないが同居はしているパートナーってなんと言っていいのかわからず「同居人です」と名乗ったら、
そのうち「パートナーさんですね」と言われるようになった。
柔軟だなぁ…。
さて、まずは障害認定日であるころのカルテがあるかどうかの確認だ。
ソーシャルワーカーさんに依頼し、20歳の誕生日前後3か月に通院の記録があるかどうかを調べてもらうことにした。
まずこの電話の時点で「そもそもねむるさん、うちの病院が初診じゃないんですけれど…」と言われて一気に不安になり、
折り返しを待っている間に、一番最初の病院がわかるかどうか、ねむるさんのお母さんにLINEしたりもした。
役所の年金課にも電話して再確認した。同じ病院から診断書が出るんなら完全な初診がその病院じゃなくてもいいんですよね?と必死に聞いた。問題ないと言われた。
その日の16時半ごろ、なんとかギリギリ、20歳の前後3か月に当てはまる期間にねむるさんが通院したカルテがあった、と病院から連絡がきた。
心からの「よかった…」がくちびるからこぼれた。
だって、こういうところでつまずく人の話が本当に多かったから。
すぐに役所でもらった専用の診断書を封筒へまとめ、現在の主治医へと手紙を認めた。
現在同居する人間として、現在の日常生活の状況を説明すると同時に、
ご多忙の中とは存じますが何卒よろしくお願い申し上げます。と。
縦書きの便せんに書いちゃったよ。
その足でゆうゆう窓口のやっている遠い郵便局まで行った。
この日休日だったけど本気で疲れ果てたことをよく覚えている。
4:だんだん疲れてきて私が潰れかける
次の通院までは約1か月あったため、ねむるさんのお母さんに連絡し、
病歴・就労状況等申立書の作成のため、お母さんにもご協力いただきたい旨を伝えた。
この病歴・就労状況等申立書は、本来であれば発病時から現在に至るまでを区切って書いていくものなのだが、
20歳前障害であるねむるさんは、幼少期・小学校・中学校・高校・現在まで…という区切りで作成が必要、とのこと。
こればっかりは私だけではどうにもならず、そしてねむるさん自身だけではなく、最もそばで見ていたお母さんのご協力もなければ無理だ、と判断。
次の病院後に時間をもらうことを約束し、申立書の作成はそれまでお預けに。
この11月、とにかくきつかった。
ねむるさんは死んだように眠り続け、私は朝起きたらねむるさんの横から抜け出し自分の時間を過ごし、準備をして眠るねむるさんに行ってきますと伝えて、仕事に行く。
帰宅しても家は真っ暗で、眠り続けるねむるさんに声をかけ、せめて一日一食は食べてほしいと二人分のご飯を作る。
ひどいときには声をかけても起きられず、ひとりで暗い部屋で手元だけ明かりを灯して夕飯を食べたこともある。
11月半ばくらいから私は意味もなく涙が出るようになったり、どんどん病んでいく。
いやはや、ずいぶんと無理がたたったんだろうねえ…。
一人暮らしが長かったから家事は苦ではなかったけれど、二人分の家事とねむるさんの介助、二人暮らしなのにまるでひとりぼっちみたいな感覚は、結構それなりに耐えがたい苦痛のひとつだったのかも。
11月23日。ねむるさんに病院から電話。
次回来院時に診断書は間に合わないかも…という連絡と、現在他者との交友はあるか、というような質問。
その電話の内容を聞き、まず次の病院の際に診断書は受け取れないだろうな…2021年中に申請できるだろうか…と不安になりつつも、なんとか生きる私。
他者との交友に関しては「同居人のみです」とはっきり伝えられたねむるさん。えらいです。
11月29日。
ねむるさん、通院兼ねて帰省。
ここで独りになったことにより私のうつ、完全に顔を出す。
さすがにnoteに残すことも憚れる内容のため割愛させていただくが、10年前に戻ってしまったんだなあと絶望すると同時に、
なつかしさとかいろんなもので涙が出た。
2021年12月2日。ねむるさん、通院のため付添。
ここでなぜか主治医から強く入院を勧められるも、逆になんでそんな話になった…?という感じで私もねむるさんもねむるさん母も首を傾げる。
その後ねむるさん母とねむるさんから幼少期~私と出会う前までのことを細かく聞き取りし、これで材料は揃いつつある…!と。
ねむるさん自身も自分の話をすることはそこまで苦ではなく(私相手ということも大きいが)、
お母さんも協力的であったことが本当にありがたい、の一言だ。
障害者手帳の取得に関してお母さんは不安そうであったが(これから先のことを思うと…という話もあった)、
年金も手帳も、必要なくなれば必要なくなった、と年金を支給停止し、手帳を返還するだけのことなのだ。
たぶんだけど、それを持つことによる「障害者」というレッテルが自分の娘に残ってしまうことがお母さんにとっては不安なんだろう、と思う。
その気持ちもまた痛いほどわかるのも現状だからこそ、これはなにも変なことじゃないことを必死に伝えたのだけれど
伝わってくれていたらいいな…。
(もちろん、この先も私にお任せいただくことを了承してくれて、私に負担が大きければねむるを実家に帰してもいいんだからねと言ってくれる本当に良いお母さんなのだ)
(そして我が実家もまた、私が元うつであること、そして現在自宅にて私の兄がうつで療養中であることから、非常に理解が大きい。これが一区切りついたら、今度は兄の障害年金申請についても本格的に実家と相談して動こうと思って話をしている最中だ)
5:病歴・就労状況等申立書をひたすら作りつつ病む
ここから先は私が頑張らねば、と。
もう半ば鬱抱えながら書類の作成に取り掛かる。
結局、この病歴・就労状況等申立書は計5回は書き直した。
手書きで作成→それを元にPCで作成→手書きのほうも作成→PCのほうを修正しつつ作成→手書きのほうも修正して書き直す……
これ実際に見せたいくらいなんですがとんでもなく文字が小さくなりました。やばいです。(笑)
これに取り掛かった際に意識したことは
情に訴えかけたってなんの意味もないので、この時期にどういった状態であったのか、どれだけ誰かの助けをもらわなければ生きていけないのか
その状態がどれだけ続いているのか
ということを明確に、そして時系列順に、そして簡潔に伝わりやすく表記するか、というところ。
これはもう文字書きの本領を発揮するところだ、と思った。
なんせ私ですね、20万字越えの小説とか書いて鈍器みたいな同人誌バンバン出してたような人間なのですよ…。
そしてこれは、私という代理人だからこそ、ここまで冷静に書けたものだろうな、とも思う。
本人がこれを作ろうと思ったら…いや、精神疾患持ちが誰の手も借りずに自力で申請するってどう考えても無理では?と素直に思った。
(ねむるさんも「私でこれは無理だ…」と言っていた)
そもそも過去のトラウマや黒歴史を掘り起こさなければいけないだけでもつらいのに、それを簡潔にまとめて、感情的にならずに何々ができない・何々で困っているとか通院状況だとかそういうのまとめるって、
そんなことができるんなら障害年金なんて申請しねーだろうがよ!!!という話。
(精神だけじゃないのでこれに関してはこんな主語のでかい発言したくないんだけれどもね)
そりゃあ、社労士に頼む人が多いのも頷ける…し、
自力でやった人たちがみんな「社労士に頼むほうが間違いない」というのはこれが大きな理由ではないだろうかと思う。
ちなみにこれをやっているさなか、ついに私はうつによる物忘れを察知し、
光の速さで心療内科に返り咲きました。
おかげさまで薬の効果もあって最近はかなり楽です。
6:ねむるさん、ようやく住民票を発行
マイナンバー記載の住民票が必要だったので、ねむるさん本人に役所に一緒に行ってもらいたかったんだけれど
11月はほとんど難しい日ばかりだったし
12月に入ってからもなんとかこんとか…でなんとか発行。
1か月かかっちゃったね、と苦笑いだが、こうしたことですらも今のねむるさんには難しいことのひとつなのだ。
最近はちょっとずつお外にも出られるようになってきたよ。
7:病院から診断書が届く
ついに病院から2通の診断書が届く。
ねむるさんが寝ている最中だったため、先に確認。
その後ふたりで確認し…「うーん、20歳のころの診断書、ずいぶん軽いよなあ…」となる。
病院へ問い合わせるも、これに関しては当時のカルテに基づいているものであること、
通院した日数があまり多くなかったことから、この内容で申請してくれ、と医師に言われる。
現在の診断書の記載も直してもらいたいところがあったためそちらを依頼し、今年最後の来院となる22日に受け取ることで話がまとまる。
ちなみにねむるさんは主治医と若干喧嘩気味で、私は私でソーシャルワーカーと若干喧嘩気味であった。
あなや。
8:診断書(改)を受け取る
12月22日、通院日。
往復400キロ超の旅であったが、ようやく診断書を受け取れた。
これですべての書類が揃った……
約2か月弱、こうしてまとめると短く感じるが、こんなにもつらい2か月弱はなかったかもしれない。
9:役所の年金課へ殴り込み(?)
あくる日、12月23日。
震えながら、私は役所の年金課へ来ていた。
ドキドキしながら年金課のお姉さんに声をかけ、また奥へと通される。
現れた相談員さんは、なんと初回と同じ方。
ここに相談員3人しかいないの、少なくてごめんねと前に言われていたので、
(ド田舎出身なので、それでも3人もいるんだなあ…と思った)
同じ方でとてもありがたい!!!!と。
書類のチェック…の最中に、本人の通帳を忘れていることが発覚。
……今日休みでよかった。本気でそう思った。
あとでまた来ますんで…ということで、ひとまず書類のチェックをしてもらうことに。
この待ち時間も生きた心地がしなかった。
これでやっぱり変なところがあって今年中の申請ができなかったらどうしよう…年明けか…とかうだうだしていたら、相談員さんが戻る。
「診断書で気になる箇所はいくつかあるけれど、とりあえずは問題ないということになった」
「申立書のここを直してほしいので、通帳を取りに帰った際に直せる?」
もうね、めちゃくちゃ安堵しました。
あとね、泣くかと思ったのは「申立書、すごくよくできてます。ここまできちんと細かく…頑張られましたね」と言われたこと。
そうなんです、頑張ったんです、って。
今思い出しても泣けてくる。
ちなみにあまりにも文字が小さすぎてさすがにPCのほうで申請したいです、あまり字がきれいじゃないので…って言ったら「そうですか?充分読みやすくてきれいな字ですよ、こっちの手書きのほうでも充分だけどな」と言われたしねむるさんにも字がきれいと言われるんだけど、私の中で私はだいぶ悪筆です。
また来ます!
そう言い残して私は車へと走った。
帰路、年金課から電話。
帰宅後に書類を直している最中にも電話。
「ここもこうしたほうがいい」
「ここにもこういう記載を追加してほしい」
……ここまで言ってくれるものなんだ……(涙)
本当にありがたかった。何度もなんども泣きそうになってしまった。
病歴・就労状況等申立書に関しての詳細は、また別記事にでもまとめられたらいいな。
20歳前障害でうつ病の病歴・就労状況等申立書の記事、探してもあんまり出てこなくて苦労したんじゃ。
10:役所の年金課に二度目の殴り込み
本日二度目の役所である。
年金課の窓口のお姉さんに「あっ、先ほどの!」と言われてもう顔パスかよって感じで奥に通された。
ありがとね、オネーサン……。
そして最終チェック。……やっぱりまだドキドキする。
「……うん、オッケーです。それじゃあ、最後に書いてもらう書類、ありますから」
――まだあるんかーい!(心の声)
その場で2枚ほど書類を書き、こうしてすべての書類を提出。
最後に、「初回から今回も○○さんで助かりました。本当にありがとうございます」と相談員さんに。
「いえいえ、とんでもないです。本当に、お疲れさまでした」
そんなありふれた会話でも、その「お疲れさまでした」は、私のこれまでの頑張りが、少しでも相談員さんに通じた心からの言葉であればいいな、と思う。
あ、あとあと。
相談員さんにちょっと聞いてみたのが「ねむるさんと私は法的には赤の他人の同居人なのですが、代理人としてそれって問題ないんですか?」と聞いてみたところ
「全く問題ないよ」と。
相談員さん曰く、入所しているグループホームの事務員さんが代理人となっていることもあるし、身寄りのない人からしたら赤の他人が代理人になるしかないんだから、
そんなの全く関係ないことなんだよ、と。
なるほど確かになあ…と思うと同時に、これは今気づいたことなのだけれど
私自身も「家族が倒れる=家族が頑張る・介助する」という固定観念があったんだな、と思わされた。
視野が狭くなっていたな…と深く反省である。
ちなみにここでぶっちゃけると私の母はしょうがい児(障害のある兄弟のいる子ども)だったため、私の叔父と叔母は軽度と重度の知的障害でそれぞれ施設暮らしだ。
それらの準備や最終的な手続きを総て母がしていたことも知っていたし(実家の市営住宅の大掃除も手伝ったんだ、母方の祖父が亡くなったあとにね)
(さらにぶっちゃけると母方の祖母は逃亡しているので、私は母方の祖母に会ったことがないし、母からはいないものと思っているから、としか言われたことがなく、それ以上はこの先もずっと聞けないのだろうと思う)
(その中で長女として母親代わりに育った母を思うと、上手に私たち兄弟へ愛情を与えられない不器用な母になったって仕方ないよね…と思ってしまって、そんなこと考えるたびに胸が痛くてちょっと泣いてしまう。私の愛着障害はHSPもそうだが家庭環境によるACによるものも大きい)
一昨年亡くなった祖父もぎりぎりまで家にいたいと言って、真夜中に転んだりしても母や兄が駆けつけて介助していたものだから。
それでも私はねむるさんと寄り添って生きていくために、「共に生きる」ことを選ぶからこそ、自分が頑張るけれどなにかを頼ることを決められたのかもしれない。
話はそれたが、相談員さんから最後にあったのは受給となった場合の話、そして…不支給であった場合の話。
不服申し立ては役所の年金課ではできないから、その場合は年金事務所へ。
どうか、その日は来ないでほしい…そう願ってやまない。
11:ここまでをまとめて
さて、非常に長くなったこれをここまで読んでくれている方はいるのだろうか。
まずまとめるとするならば、
代理人としてやるのには、かなりの覚悟が必要だと思う。
はっきり言うけれど、正直言うけれど、めちゃくちゃにくたびれた。
これが終わったからって、総てなにもかもが上手くいくわけじゃない。
不支給になる可能性だってある。
それに、日々の過ごし方は相変わらずそんなに変わりないのだ。
ねむるさんの病状は一番ひどかったころからは落ち着けども、
相変わらず二人分の家事はほとんど私がやっているし、ねむるさんはたくさん眠る子だし、
私のうつの病状も正直芳しくない。
それでもひとつ言えることは、私がここまで頑張れたのは、ひとえに「ねむるさんと生きていたいから」だ。
それはきっと、これから先もずっと変わらない事実として残る。
ねむるさんも、私も、とても頑張ったのだ。
そして私は、これから先もねむるさんのために、そして自分のために、ふたりの暮らしのために、ふたりの未来のために、いつまでも頑張るのだろう。
無邪気に笑うねむるさんと、その横で呆れたように肩を落とす私の姿は、悪いものじゃないのだ。
気障かもしれないけれど、私は、これが愛じゃないというのなら、もうなにも信じられない。
ねむるさんのちいさくて冷たい手を握って、これからもふたりのペースで歩いていけたらいいな、と今は素直に思っている。
どうか少しでも、この記事でそれ相応の覚悟を決められる人がいますように。
共に生きることを、寄り添うことを諦めない人がいますように。
また別記事も作れたらいいな、とは思っているけれど、
春ごろに良い知らせがここでもできますように。
今はただただ、それを願って。
最近聴いては泣いてしまう歌の一節をなんとなく載せておくね。
「きみといるときのぼくが好きだ」
私は、ねむるさんといるときの、かっこよくもかわいくもない、そんな私が好きだ。
なんにも持ってないけれど、
愛する人のために本気で頑張れる自分は、結構嫌いじゃないよ。
ねむるさんだから、頑張れたんだ。
ねむるさん、ありがとう。
これからもよろしくね。