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広い部屋の誘惑と罠──「狭くて最高」と言い聞かせるミニマリストの悲哀

「広い部屋って最高だよね~」と誰もが言う。

だが、果たしてそうだろうか?

一度、広い部屋に住んでしまったら、むしろその罠にハマるのではないか?

人間、広ければ広いなりに物を増やし、無駄にスペースを持て余し、最終的には「なんか落ち着かないな…」と座布団の上で体育座りする羽目になるのだ。

実際、私もかつて広い部屋に憧れた。

広いリビングで優雅にコーヒーを嗜み、壁一面の本棚に知的なオーラを漂わせ、余裕のあるキッチンで「ちょっとした料理」なんか作っちゃうのだ。

カウンターにはオシャレなペンダントライト、ダイニングには木製の大きなテーブル。

朝はバルコニーでモーニングコーヒーを飲み、夜は間接照明でムーディーに…。

だが現実は違った。

広い部屋は、何もないと寒々しい。

家具を置くと、むしろゴチャつく。

掃除が面倒、モノが増える、エアコン代が爆増。

最終的に「これ、部屋が広いせいじゃね?」と気づいたときには、すでに遅いのだ。

広い部屋の闇──それは人間の本能を試す悪魔の箱


人は、スペースがあると埋めたくなる生き物だ。 

広いリビングにはソファを置き、ラグを敷き、ついでにオシャレな観葉植物を…とやっているうちに「モデルルームか?」という状態になる。

しかも、最初は「こだわりの一品」だったはずの家具も、やがて「まぁこれでいっか」となり、最終的には「なんか増えすぎたな…」となる。

つまり、広い部屋は人間の物欲を加速させる装置なのだ。

そして広い部屋は、掃除の怠惰も生む。

小さな部屋なら「ちょっと拭くか」で済むが、広い部屋は「今度でいっか」が続く。  

結果、部屋の隅には「ホコリのデッドスペース」が生まれ、時折そこから謎の毛玉が出てくる。

「誰の毛!?」と驚くが、冷静に考えれば自分のものだ。

怖いのは、髪の毛がこれほど落ちているのに、自分の頭部には一向に減少が見られないことだ。

人体の神秘である。

結局、落ち着くのはウサギ小屋サイズ


広い部屋での生活に疲れ果てた私は、最終的に「ミニマリスト」として生きる道を選んだ。

狭い部屋に住み、最低限のモノだけを持つ。

すると、驚くべきことに心が落ち着いたのだ。

例えば、部屋が狭いと、物理的にモノが増やせない。

これが良い。 

悩む前に選択肢がなくなる。

掃除も秒で終わるし、部屋が散らかる暇もない。

そして、どこに何があるかすぐにわかる。

この快適さは、一度味わったら抜け出せない。

そもそも、広い部屋に住んでいたときの「優雅な朝時間」とやらは、たいてい錯覚だった。

バルコニーでコーヒー?

実際は鳩に威嚇されて終わりだ。 

大きなダイニングテーブル?

使うのはPCと飯を食うときだけで、大半の時間は物置と化す。

リビングのソファ?

一度座ると動けなくなる魔のトラップ。

つまり広い部屋は、油断すると人間を”住まわせる”のではなく”堕落させる”のである。

対して狭い部屋は、ダメになろうにもダメになれない。

なにせ、ゴロゴロしているとすぐ壁にぶつかるし、モノを出したらすぐ目につく。

「掃除するか…」とならざるを得ない環境なのだ。

結論:部屋は狭い方が良い(異論は認めるが受け入れない)

こうして私は、一周回って「広い部屋は要らない」という結論に至った。

そもそも、日本人のDNAには「こたつで丸くなる」という本能が組み込まれているのだ。

広い部屋でシャレた暮らしを目指すより、こたつ一つで完結する暮らしの方が、よっぽど合理的で心地よい。

もちろん、広い部屋が好きな人もいるだろう。それはそれでいい。

しかし、私は狭い部屋で満足している。

掃除は楽、モノは少ない、維持費も安い。

「広さ=快適」ではないのだ。

むしろ「ちょうどいい狭さ」が、人生の快適ゾーンなのではないか?

というわけで、今日も私は3畳の部屋で至高の時間を過ごしている。

座布団に座り、壁にもたれ、湯のみ片手に「狭くて最高だな…」とつぶやく。

いや、違う。

もう少し正直に言おう。

「狭くて、最高なことにしておかないと、やってられねぇ」

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