大江戸コンサルティング物語/前編
マーケティングは、いつ、どこで誕生したか、ご存知ですか?
マーケティングの起源は諸説あり、
1)1900年頃の米国で、大量生産・大量消費の自動車産業から生まれた
2)1800年代末の米国で、農産物の流通問題から生まれた
3)1920年代以降の米国で、大衆化のファッション産業から生まれた
と、いずれも、1900年前後のアメリカ生まれが通説です。
ところが、ドラッカー教授は、1900年代から250年も遡ること「1600年代後期の日本で生まれた」として、
コトラー教授も、それを「マーケティング・マネジメント」に引用しています。
ドラッカーとコトラーが追究したマーケティングの起源は、
現在の三井グループ(旧三井財閥)
三井物産、三井造船、三井倉庫、商船三井、三井化学、三井製糖、三井不動産、三井農林、三井住友海上、三井住友建設、三井記念病院、三井住友銀行、三井海洋開発、三井石油開発、三井金属鉱業、三井記念美術館、三井住友信託銀行、中央三井信託銀行、三井住友海上火災保険、三越伊勢丹(他数十社)
の祖となった三井高利です。
いったい、三井高利の何がマーケティングの起源だったのでしょう?
それを、時代を遡って、筆者が創作したフィクションを通し、教科書的にではなく、読み物として、楽しく見つけていきましょう。
大江戸コンサルティング物語/前編
この物語はフィクションです。
登場する人物や団体は架空で、実在する固有の名称とは一切関わりありませんが、時代考証は、ほぼ史実に即しています。
また、本作品は、他の軟派な自作の物語や、シナリオと異なり、硬派な文章になっていますので、
取っつきにくいかも知れませんことを予めご了承ください。
シーン1/11■ 三重の布袋さま
紀伊半島の伊勢湾沿いに点在する紅白段だら模様の煙突から立ち上った白煙を車窓より眺めていると強い既視感に見舞われた。
私は、ここへ来たことがある。
それも2年前や20年前ではない。
350年前の江戸時代に、ここへ私は来たことがあった。
350年前に見た伊勢湾の風趣と、現在の風景が重なって、既に訪れた気にさせるのであろう。
その日私は、三重県松坂市にある酒造メーカーの社長から、コンサルティングに呼ばれていた。
東京から松坂まで三時間半。名古屋で電車を乗り換え、四日市、津、松坂へと紀伊半島の東側を南下する。
松坂駅でタクシーに乗り、社長宅の住所を告げると、やがてタクシーは、漆喰の白壁が続く長屋門の前で停車した。うだつがあしらわれているのは、裕福な商家の証か。
八の字に開かれた長屋門をくぐると、回遊式の林泉庭園が広がり、庭の対岸に入母屋の玄関があり、その背後に鋸屋根が見える。入母屋へつながる鋸屋根が酒造工場であろう。
玄関の土間で訪いをいれると、縞木綿の小袖に割烹着という、家政婦のような老婆が現れ、応接室へ案内してくれた。
老婆が去ってしばらくすると、遠くで「先生がおいでた」と呼ぶ声が聞こえる。
応接室で待たされることしばし。書院造りの応接室で、床の間、床脇、長押が揃った真の和室だった。行や草の和室とは異なり、空間に重量感がある。
七福神の掛け軸は狩野常信だろうか。そんなことを思っていると、掛け軸から抜け出したように、本物の布袋さまが現れたから、驚いた。
「待たしたんのしたわ」
現れたのは、七福神の布袋さまのように福福しい壮年の男性だった。
頭は禿げ上がり、耳朶は異様に大きく、糸のような細い目が波打つように垂れ下がっていて、真顔なのか、微笑んでいるのか、容易に判別つきにくい。
十徳に着流しという茶人風の、それでいて、いかにも大店(おおだな)の旦那風の布袋さまは、懐から名刺入れを取り出した。
漆塗りの座卓の上を滑るように差し出された名刺には、造り酒屋の社長の他に、金融会社の社長と、呉服商の社長の肩書きもあった。
「早速やがなあ」
初対面の挨拶もそこそこに、布袋さまは、本題を切り出した。
シーン2/11■ 価値と価格
造り酒屋は代々の商売で、それとは別に、布袋さまが28歳の齢に金融業と呉服商を始め、52歳の現在に至るまで、社業を順調に発展させ、今では、造り酒屋を凌ぐ勢いだという。
酒造業は斜陽だが、造り酒屋に携わってきた職人達や取引先のことを考えれば、廃業するわけにもいかず、細々と継続中。
布袋さまが本腰を入れているのは金融業で、いつの時代も、金融を押さえた者が勝つというシンプルな考え方に基づくらしい。
実際、布袋さまの金融業はユニークで、借りたお金を、お金以外で返すことができるという。
たとえば、絵画。1,000万円の借金の形(かた)に、1,000万円の絵画で返してもらう。
その絵を、布袋さまは競売にかけ、1,500万円で売りさばく。利子に換算すると、50%という桁外れの儲けが転がり込む仕組み。
同じように、金のインゴットで返してもらったら、金相場が上昇した時に売る。
株券で返してもらったら、株価が上昇した時に売る。土地で返してもらったら、地価の上昇に乗じて売る。
まるで、銀行と質屋とオークションと取引市場を一体化させたような金融業を展開している。異業種の組み合わせである。
要するに、価値と価格が変動する品物であれば、どんな物で返してもらってもいい。
時には、目利きに優れた従業員達が、ガラクタ同然の彫刻や家具を二束三文で買い付け、百倍千倍の値をつける。それでも売れるというから驚く。
バブル景気の頃に、日本の商社や百貨店が、ヨーロッパ諸国で買い付けた手法と同じである。
1万円の形に返してもらった茶碗が、100万円で売れたこともあれば、10万円で買い付けた彫刻が、12億円で売れたこともあったという。こうして布袋さまは、わずか10年で巨万の富を得た。
私は舌を巻いた。
「価値を認めない人のところから、価値を認める人のところへ持っていく貿易と同じ発想だ」
価値と価格の話を聞くにつれ「布袋さまは、マーケティングの天才だ」と思うようになった。
シーン3/11■ 何を売ってもうまくいく
残る事業が、呉服。
松坂が木綿の一大産地であるため、呉服業を選んだという。
この時「おかしい」と気づくべきであった。
確かに、松坂からは、長谷川家、小津家、長井家、三井家といった江戸店持ちの豪商が排出されてきたが、松坂が木綿の一大産地だったのは、江戸時代までの話。
明治に入ると、安くて美しい糸や織物が海外から輸入されるようになり、松坂木綿は廃れ、今では、伝統工芸品の位置に落ち着いている。
とてものこと、これからの松坂木綿に、捲土重来を期す機会が訪れようとは誰が想像しよう。
それに気づかなかったのは、金融業における布袋さまの実力を、垣間見たからである。
「価値と価格を知る布袋さまならば、どんな商売も、軌道に乗せるだろう」
と考える私の読みを見透かしたように、布袋さまは、
「呉服を売ったってダメやに」
と、自ら売っている商品を一蹴した。
まるで、奔流に弄ばされる木の葉のように、私の判断は激しく揺れ動いた。
一体どういう意味だろう?
答えは、すぐに理解できた。
布袋さまにとって、呉服は、商材に過ぎず、商材は、呉服でなくてもいい。
商品を売るのではなく、お客様の役に立つ物を売り、お客様の便益が向上するのであれば、何を売っても、商売はうまくいくという。
商品を売るな 価値を売れ
ということである。
逆に危険なのは、呉服と金銭が交換されることにより、呉服こそ価値ある品物だと勘違いしてしまうこと。
顧客よりも、商品に価値を認めてしまうと、商品優先になり、顧客は二の次になってしまう。
商品に価値があるかどうか認めるのは、お客様なのだから、焦点を当てるべきは、商品ではなく、お客様である。
お客様の価値を提案すれば、商材が呉服であろうと、金融であろうと、商売はうまくいくという論理。
商品と代金の交換ではなく、価値と代価の交換である。
私は、マーケティングとの一致に驚いた。
「コア・ベネフィット…バリュー・プロポジション…これぞマーケティングだ」
シーン4/11■ 江戸へ
布袋さまが言うには、一大消費地の東京に、呉服店を構え、拠点にするつもりだが、
自分には、金融業があるため、東京へは行かず、東京の呉服店は長男に任せる。しかし、
「長男ひとりで大丈夫か?」
との不安がつきまとう。というのも、
「高平な、江戸へな、先に行ったんやんか。ほしたらなあ、かいだりわぁって手紙に書いてきよってん」
長男の高平氏は、既に東京へ赴いており、早くも、疲労を訴える手紙が届いているらしい。
そこで、東京における長男のアドバイザーとして、東京在住のコンサルタントを探していたという。
私は不思議に思って訊ねてみた。
「東京には、数千人ものコンサルタントがいます。どうして私に?」
「できやん言わへんやんか」
「は?」
「できませんとは言わへんのが御社の行動指針やと聞いたに。それはな、知恵ある証拠やん。知恵を絞り出す限り、不可能はありませんやに」
そうして私に白羽の矢が立った。
早速、東京へ戻り、高平氏の店舗へ伺うことを約束し、お暇することになったため、
「すいませんが、駅までのタクシーを呼んでもらえませんか?」
とお願いし、あとは、茶を頂きつつ、世間話に興じていると、やがて、割烹着の老婆が現れ、
「お迎えが来たったん」
と知らせてくれた。
門を出ると、タクシーではなく、駕籠(かご)が用意され、筋肉隆々な二人の駕籠舁(かごかき)が立っていた。
「か、駕籠?」
そこは、350年前の日本だった。
大江戸コンサルティング物語/後編へ続く