田中一匹ナイトダイブ
先日、先輩と夜釣りにいった。23時頃になんの前触れもなく「牛窓」とだけ連絡が入った。(牛窓とは岡山県瀬戸内市牛窓町のことでありそこに来いという意味である。自宅から約35km。)こういった突発的な誘いはこれまでにも何度もあったわけで、会社勤めをしていた頃の僕ならそろそろおふとんに入ろうかなという時間であったため即答で断っていたのだが「まあ、どうせ今日も明日も無職だしいいか」と、その日は珍しく酒も飲んでいなかったため、平日深夜のすっかり静かになった国道に車を走らせた。後に語られる悪夢のはじまりである。
釣りを趣味としている友人は、以前から周りにたくさんいたのだが、僕にはどうも、「針とか糸とか、なんか、面倒くさそうですな。」という漠然とした苦手意識が拭えず、誘われて行ったとしても、ボーっと横で眺めていることしかしなかった。(ただ、釣りを眺めることに関してはプロであったため、大学三回生のころ、先輩に誘われて佐賀県まで釣りを眺めにいったことがある。)しかし最近、「放課後ていぼう日誌」という女子高生が楽しく釣りをするという、なんともほのぼのとした素敵アニメを見たことがきっかけで「釣り、やってみようかな!」といとも簡単に意見を180度転換させて、翌日には近所の釣具屋に足を運び釣り竿を購入したのであった。僕は元来、影響を顕著に受けやすい人間なのである。
そしてこの日が、購入した釣り竿の記念すべき一投目となるのだ!と、少し重いまぶたを擦りつつ期待に胸を膨らませながら牛窓に向かった。道中、「お腹減るかな?」とコンビニで納豆巻を購入した。車を走らせ1時間弱、ようやく到着した牛窓で先輩に「ええ釣り場があるんじゃあ」と連れていかれた場所は、港の奥地。「おお!穴場ぽくてええですな!僕の釣りライフ、スタートでありますな!」とはしゃいでいたのだが、「ここじゃねえ、”これ”をよじ登って越えたところじゃ」と先輩が指さした先には、高さ三メートルほどある頑強な鉄の柵があった。一目見ただけで分かった。僕には確実に越えられないということが。僕は運動神経がとことん悪い。ただ単純に走るだけとかならまだしも、自分の身長の倍近くある鉄の柵をよじ登るだとか、そういった繊細かつ大胆な運動的素養が必要な動きは僕の専門外なのである。しかも万が一にも足を滑らせたら、そこは真夜中の真っ暗な海だ。下手したら死ぬ。僕は静まり返った真夜中の港で、声高らかに「無理です!」と叫んだ。もう一度叫んだ。「無理です!!!」と。しかし先輩も何故か「ここで絶対に釣りをするんじゃ!」と言って引かない(引けよ)。両者一歩も譲らず、30分の時が流れた。もっとかもしれない。まあ、お互いにわざわざ1時間もかけて遠く離れた牛窓の地に釣りをしに来たわけだし、先輩はというと、ここで釣りをするという確固たる意思を曲げる気はさらさらないようだし(曲げろよ)、港に住み着く野良猫たちが、放置していた僕の納豆巻を巡って勝手に喧嘩を始め勝手に「シャ--ッ!」とか騒いでいるし、このまま深夜の港で波の音に包まれながら男二人でこれ以上無意義な時間を過ごすことにも抵抗が出てきたので、意を決して「やるしかねえよな...」と立ち上がった田中一匹は、10秒後、夜の海に転落した。
幸いにも僕はカナヅチではなかったが、服や靴が海水を吸って相当重くなっていたので本当に死に物狂いで、必死に犬かきをした。なんとか港に這い上がり、海水をこれでもかと吸い込んだ重たい服を脱ぎすてた。持ち合わせていた烏龍茶で塩辛くなった口内をゆすぎ、海に吐き出すと、揺れた海面に合わせて海ほたるがきらきらと輝いていた。僕が転落する瞬間に放った「落ちます!」という叫び声が深夜の港に響き渡り野良猫たちは逃げ出していた。なんだがおかしくなってきて、まあこれはこれで一つの思い出だなと、当初の予定とは大きく変わってしまったけれども、いい夜だったなと、そういうふうに思えたし、そういうふうに思えるところが僕の愛すべきところだなと、全裸の男は考えたのであった。ちなみに替えの服は、先輩が車に乗せていたものを貸してくれたので全裸帰宅せずにすんだのだが、この服だけは絶対に借りパクしてやろうと思います。