二千一夜物語 終章
終章 本の方舟
世の中のとても多くの人たちが、本当にいいものを知らずに死んでいく。本当の生活、本当の芸術、本当の感動、心からの笑いを。
「本を読んでわかること、それは知は学問や地位とは何の関係もないということ」
偉大な猟書家である荒俣宏のその言葉に私も同意する。大学はかつても今も知の殿堂ではない。だのに大学人たちは虚偽の衣をまとっている。なぜか?人を欺くためにはまず自分を欺かねばならないから。現代とは、誰もが偽装に慣れすぎた時代のことである。
「ああ、本当の考えと嘘の考えを見分けることができたら」
これは宮沢賢治の嘆き。
「人間は魂と塵とがどのように混ざり合っているかを調べる試作品」
これは無名作家の声。私にとって書くことはまさにそれだ。精神と肉体の均衡点を見つけ出すこと。
私は書く。キプリングが言うところの「六人の忠実なしもべ」を総動員して。すなわち「いつ」、「どこで」、「誰が」、「何を」、「いかに」そして「なぜ」を。
そう、やはりそれが最後の問いになる。「なぜ」私は書くのか?その答えは?
「もう充分です。終わりのないこの白い紙は目を消耗させます。それでつい書き続けてしまうのです」
フランツ・カフカは愛人に宛てた手紙の中でそう述べている。つまり白地の強迫だ。そんなところかもしれない。『断食芸人』の作者は、いつもこれ以上あとずさりできない地点から書きはじめる。
あるは白地を利用し、白地に語らせる手法もある。それは<余白>と呼ばれ、<行間>とともに沈黙の雄弁をきわ立たせる。
かつて本は束ねた鉛の文字棒を紙に押し当てて作られた。「文選工」と呼ばれた職人たちがそれを版木に組みつけた。<余白>にも<行間>にもふさわしい鉛版が充てられた。
だがその「活版」はいつしか消滅し、文字は紙よりも軽いものになった。吹けば飛ぶような言葉があふれ、それが転写され拡散され、そのうち誰も<余白>や<行間>など気にとめなくなってしまった。
現代の出版社の多くは娯楽の提供者と化している。もう読みごたえのある本など出ない。どうしてそんなことになったのか私にはわからない。稼ぎに追われて考える時間を失くしたのか、だとしたら本末転倒だ。読書に必要なのはたっぷりの時間であり、本作りにも同じことがいえる。じっくり時間をかけて良い本を作ればいいのに。
本は新聞や雑誌とは違う。広告主の意向に左右されない。本はまたテレビや映画のように大量の視聴者を獲得する必要もない。さらにまた、一気にどっと売れなくてもいい。本はいつも読者を待てる。たしか三千年の時を経て開花した蓮のことを本で読んだ覚えがある。
「ホモ・サピエンスは反生物学的発明=自意識によって本質的な遺伝子的変化なしに急激に文化的退化をしている。これは獲得形質が受け継がれるためだ。しかしそのことはわれわれを解放に導くのか、それとも地獄に突き落とすのか、現状は気ちがいじみた加速の段階だと思う」
そう書いた進化学者スティーブン・J・グールドは、人類の行く末を見ることなくこの世を去った。
実は、私は知っている。この図書館が巨大な「方舟」であることを。
来るべき大洪水のおり、この建物は船に姿を変えて大洋に進み出る。図書館運営ボランティア募集のさい行われた施設見学会で私はそれを知った。立ち入り禁止区画に迷い込み、そこで秘密を見てしまったのだ。
その時が来たら、この図書館の書架と閲覧ブロックは本体から切り離される。つまりこの「方舟」は、かつてと違い、捨て去る。
その時には私も置いてけぼりだ。
無数の駄本と共に海のもくずになる。
だが、そうと知って覚悟ができた。
最後の瞬間まで私はここで書く。
しめくくりはやはりボルヘスがふさわしい。
ここの最後の引用を行う。
「わたしの未にはわずかなことしか起こらず、わたしはただ多くのものを読んだ――おそらくわたしは老年の恐れにあざむかれていようが、人類は、唯一無二のこの人類は――絶滅の屠場にあり、他方、図書館は永遠に続くだろうと思われる。輝き、孤独で、無限に、完全に不動で、貴重な書物に満ち、無用で、無窮に、ひそやかに」