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しみとデザイン

創造性はどこからやってくるのか?

レオナルドのよく知られた「才能を刺激してさまざまな試みを引き出す」ための方法とは、壁についたしみや組み合わされた石などを眺め、そこにさまざまな風景、戦闘、あるいは人体や「ありとあらゆるもの」を読みとるというものだった。

これはトマス・D・カウスマンの『綺想の帝国』からの引用。
このレオナルドとは、もちろん、あのレオナルド、そう、ダ・ヴィンチのこと。

引用中にある「試み」というキーワード、原語ではインヴェンションで、発明という意味もあるワード。カウスマンによれば、「試みは古代における修辞法の教育では標準的な課題」であったという。言語的な表現に関わるワード、概念だったわけだ。
この修辞学的な課題が「ルネサンス期を通じて、修辞学の古代的伝統から最終的に引き出されてきた思惟の用語法や構造が視覚芸術の理論や実践に応用されるようになり」、「16世紀までにこの言葉は、広い範囲の芸術的営為を記述する際にごく一般的に使われるようになった」のだという。

その芸術的営為である「試み」を引き出すために有効なことが「壁についたしみ」などを見ることだとレオナルド・ダ・ヴィンチは言っているわけだ。
そして、カウスマンは、こんな風にも補足している。

ゴンブリッチがすでに示唆しているように、試みという概念、およびスケッチのときに想像力の流れを流動的なままにしておいて不定形な形態を描くこと、これらはレオナルドの意図にそうものだった。ゴンブリッチはいたるところで、レオナルドが「素早く乱雑なスケッチが画家にとって逆に新しい可能性を示すこともありうるのだから、伝統的な小心翼々とした素描の方法は避けるべきだと画家たちに忠告するというような勇み足までやってしまった」といっている。

しみのような不定形なものから、いわば偶然に新たな可能性を引き出すこと、そこに試み=発明への糸口があるいうわけである。

しみとデザイン

ところで、このカウスマンの議論、どこからはじまっているかというと、まさに16世紀試みに満ちたアルチンボルドが自作の素描について説明する手紙を読む中ではじまっているのである。

カウスマンはこんな風に議論を切り出す。

16世紀の美術論文では、才能およびそこから出てきた試みという概念は、デザインあるいは素描について議論する際に頻繁に援用された。試みと素描におけるその表現、あるいは実現がアルチンボルド自身の意識の中でも密接に関連し合っていたことは、彼が素描についての記述に使った言葉、「おおまかなデザイン(マッギア)」によくあらわれている。

試みについての議論がその手紙では展開されているという。そして、ここでは、アルチンボルドが手紙の中でデザインという意味で使った"maggia"というワードがポイントだ。
というのも、

デザインという言葉には、多様な意味が込められている。ミラノ方言でこれに相当する言葉はしみ(マッギア)であった--これは芸術上の試みをについてのルネサンス期における議論では重要な意味に満ちた概念だった。

アルチンボルドはミラノ出身の画家である。その彼がデザインという意味を表現する際に"disegno"というワードではなく、"maggia"を使っていることに意味がある。"disegno"の方はまさに素描を表す言葉であり、素描についての議論であれば、その方が自然である。
にもかかわらず、しみを意味するワードの方を使っているのは、それがレオナルド以来のルネサンス期において「しみという言葉は、ある形態を創造したり試みたりする想像力の働きについてのルネサンス期における議論にしばしば姿をあらわす」言葉という性格を帯びていたからだろう。
アルチンボルドは、自身の素描を模倣としてのそれではなく、想像力による創造という意味で伝えたかったのではないだろうか。

如何にして古代の単なる模倣にならないか?

ところで、創造するということに価値を感じることは、人間の歴史において、ある時期までは、決して当たり前のことではなかった。

ホイジンガが『中世の秋』で「中世においては、芸術は、美という固有の事物とは考えられていないのである」と書いているように、芸術はいまだ応用芸術として何か用途を持った品をより良い形で作る技術として捉えられていたのであって、美や新しいものの創造ということの価値はいまだ認められていなかった。
ホイジンガが次のように描くのが、中世における人びとの芸術観である。

この時期、人びとの頭のなかには、まだ、よい趣味と悪い趣味というはっきりした区別がなかったのである。きらびやかでめずらしいものをほしがる気持と芸術感覚とが、まだ未分化の状態にあったのだ。ナイーブな空想の、なにものにもとらわれずひろがるところ、奇怪さも美しさとうけとられたのである。(中略)なにしろ、「眉と目が自由に動く」自動人形があったというのだ。天地創造の出しものには、魚までもふくめて生きた動物が、ぞろぞろと舞台に登場したというのである。高尚な芸術品と、高価ながらくたとが、はなはだ無邪気に混同され、ひとしなみに嘆賞されていたのである。

いまでも芸術的な価値には「めずらしさ」が含まれることはある。だが、現代においては、芸術的な意味をもつめずらしさとそうでないめずらしさには、区別はつく(曖昧な境界に位置するものはあっても)。
しかし、中世においてはまだその区別はなかったし、区別をする必要も当時の人びとは感じていなかった。

それが変化してきたのが、ルネサンス期である。カウスマンはこんなことを書いている。

問題は、もし古代の実践がある芸術形態の用法を実効あるものとしているなら、そして、もしそのために古代人たちが模倣あるいは競争のためのモデルを提供しているなら、いったいどういう根拠があって、またいったい何にもとづいて芸術家はこれまでに知られていなかった何ものかを表現したなどと主張できるのか、ということである。すくなくともホラティウス以来、問題は、詩的な試みにおいて、そのテーマの選抜をも含んで、新しいものの創造が可能かどうか、ということにあった。だからこそ、アルチンボルドの提案は、H・R・ヤウスが発見した古代・近代論争の中に埋もれていた論題、すなわち古代の美学の標準と考えられていた自然の模倣か、それとも美的な試みかという論争にもかかわっていたように思われる。

ルネサンス期に文字通り、ローマの地下から古代が掘り起こされたとき、芸術家たちはそれに価値を認めると同時に、自分たちが如何に古代の単なる模倣ではない、新しさを加えたものが作れるか?を問題視するようになった。
そう、新たな「試み」をする才能をもつかどうかが芸術家であるかどうかの基準として自らに課したのである。

ここで新しさが価値を持つようになったわけだが、いま見たようにそれは古代という比較対象を持った上での「新しさ」だったことには着目しておいて良い。
そう、それはとにかく新しければ良いというものではなく、自分たちが認める古代に対して、何を加えられたか?という問いであった。中世が求めた「めずらしさ」とも違うし、現代における新しいもの好きとも違う。

怪奇趣味(グロテスク)と気まぐれ(グリッリ)

グロテスクの語源は、グロッタ=洞窟で、これはローマの遺跡が地下から掘り起こされたことに由来する。この古代に敬意を示しつつ、それを越えようとするのが、グロテスクであったといえる。
では、ルネサンス期の芸術家たちは、如何にして新しいものを生み出そうとしたのか?
ここに例のレオナルドのしみが出てくるわけだ。そして、そのマッギアは同時に「デザイン」にも展開するしみでもあった。新しいものを生みだす源泉として、しみが注目されることと、デザインが意識されはじめたのは同時なのだ。

このしみ=デザインについて、当時の人びとは、ほかに、幻想(ファンタジア)、空中楼閣(カステロ・イン・アリア)、夢想(ソーニ)、妄想(キメレ)などと呼んでいたりしたようだ。あるいは、そうして生み出された新しい美を評するのに、冗談(スケルツォ)、奇天烈(ビッザリーエ)、気まぐれ(グリッリ)、思いつき(カプリッチオ)などと呼ばれたりしていた。先に中世においては「めずらしさ」を闇雲に追いかけた旨を紹介したが、ルネサンス以降では、それが新しいものを生みだすための「試み」のための目的は明確になっただけで、判断基準としては引き続き有効であったことは注目して良い。
さらに、そうした「めずらしさ」をもった新しいものが混乱(コンフーゼ)や寄せ集め(デイヴェルゼ・コーゼ)によって、生み出されると考えられていたことを知るとき、なぜ、しみなのか、そして、なぜアルチンボルドがあのような寄せ集めの絵を描いたのかも理解できる。

さらに、このことは冒頭の問いにもつながってくるだろう。
20世紀になってヨゼフ・シュンペーターが「新結合」の名でイノベーションを定義したが、その遥か以前の16世紀には、気まぐれや思いつきをうまく使った混乱や寄せ集めの試みによって、新しいものの創造が可能であることを芸術家たちが研究・実験しはじめていたことを、僕らはもうすこしちゃんと理解しておいた方が良い。
創造のための想像力には、気まぐれから寄せ集めへとつなぐことが必要になる限り、素材としての教養の量と、古代においてそれが重視されたような一見関係のない教養同士を巧みに組み合わせるための広義の修辞学的な方法が求められるであろうことを。

#ルネサンス #創造性 #アルチンボルド #芸術

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棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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