間違いを認められないということ
何かをうまくやれないことの原因の大きなひとつにそれがある。
そう。自分が何かを間違ったということを認められないことだ。
何かをやろうとするときに、途中で間違った方向に進んでしまってること、間違ってやるべきステップを踏まなかったことなどに気づいた際、その間違いを認めてやり直さなけば、やりたい方向に事が進むはずはない。
けれど、その間違いをどういうわけか認めず、方向性や手順など、間違ったことの修正をしない、できない人が少なからずいる。
もちろん、その態度では事は好転しない。間違ったことを認めて修正を図らなければ、やりたい方向に進むはずはない。
なのに、間違ってることを指摘されてなお、修正ができない人がある程度の数だけいる。
間違いを認めるスタンスが必要
もちろん、間違いの指摘のされ方にイラッとする場合もあるのだろう。そこは同情もする。
けれど、そのことと間違いを認めて修正を図ろうとしないことは別問題だ。誰かの指摘がたとえイラッとしても、自分で改めて考えてみて、確かに何か失敗とか不足がありそうだなと気付いたら修正はした方がよいだろう。それでやりたい方向に進むようになるのなら。
なのに、そういう論理的な思考ができないのか、自分が間違いを修正しなければ自分自身のやりたい方向に進めないのに、その間違いをかたくななほどに認めらないというケースを見かける。
側からみると唯々もったいなくしか見えないのだけれど、何が邪魔してそうなってしまうのだろうか? あるいは、単純に指摘されてなお、間違ってることがわからないということなのか?
そういう場合もあるかもしれないが、だとしたら、よりいっそう、もっと周りの人の指摘に素直に耳を傾けるスタンスを持つようにしないといけない。でなければ、自分がおかしてしまいがちな間違いをいつまで経っても繰り返しおかしてしまうことになる。それほど、もったいないことはない。自分自身をよくするチャンスを自分から捨ててしまっているのも同然だからだ。
当たり前なのだけど、多くの人が意外と気づいていないのは、ほとんどの間違い、失敗はそのこと自体が悪いのではすこしもなく、それを認めて修正や反省をしないから悪いだけだ。だから、間違わないようにとか失敗しないようにとか過度に考えすぎるのはナンセンスだし、それだとチャレンジができなくなるので有害でさえある。大事なのは、いつでも間違いや失敗を認めて、修正したりやり直したりができるかどうかの方だ。
そのためには、当然、間違いや失敗を認めるスタンスは欠かせない。
日常とは判断基準をつくる実践的練習の場である
でも、ぼんやりとしか考えず、なんとなくでいろんなことを進めていたら、そりゃ間違いになかなか気づけないのだろうなとは思う。
間違いに気づくためには、その人の中に何かしら間違いかどうかを判断するための基準が必要だからだ。
ぼんやりなんとなくでは、その判断基準を醸成しようがないのだから、結果として間違いを認められないのは必然かもしれない。
ぼんやりなんとなくの人には、何かに取り組む際の仮説やシミュレーションが欠けている。ぜんぜんないとは言わないが、あまり自覚的に仮説やシミュレーション、計画づくりということができていないのではないかと感じる。
「自覚的に」というのは、仮説やシミュレーションや計画があくまで絵に描いたような餅であり、現実とは異なる何かしらの「間違いや失敗」を含む可能性を持つものであるという自覚を持つかどうかということだ。
その現実とのズレを生んでいるのが他ならない自分の視点=point of viewであり、それは意識するかしないかにかかわらず価値基準、判断基準として働いてしまうものだということを、自覚的でない人は考えてない。
どこからどう見るかで見えるものは変わるのであり、その視点が間違いや失敗の原因であることに意識的でないと、間違いや失敗の修正がむずかしくなる。
というのも、遠近法はその本性からしていわば両刃の劍だからだ。つまり、遠近法は、物体が立体的に広がり、身ぶりをそなえて動きまわるような場をつくってもやるが、それはまた、光が空間のうちにいきわたり、物体が絵に解消してしまう可能性をも生じさせる。
エルヴィン・パノフスキーの『象徴形式としての遠近法』からの引用。唐突に感じるかもしれないが、結局、この遠近法のもつ両義性と、ぼんやりなんとなくの話は関連している。
遠近法はうまく使えば、人間の頭の中の思考と現実世界をつなぎ、建築家がパースなどの2次元のイメージで実際の建物を想像する=シミュレーションする、計画するのに役立つツールであるように、計画やシミュレーションというのは、頭の中と現実のあいだでのデザインを可能にするものだ。
けれど、遠近法が気がつくと物体から離れて、ただの絵(に描いた餅)になってしまうのと同じかように、ぼんやりなんとなくの計画は現実との接点を欠いてしまう。それでは現実に起こる間違いや失敗と計画とのギャップに気づけない。
遠近法はまた、人間と物体とのあいだの隔たりを作り出しもする(「一つはそこで見ている眼であり、もう一つは見られている対象であり、第三のものはそれらのあいだの隔たりである」と、ピエロ・デッラ・フランチェスカにならってデューラーが述べている)が、しかしそれはまた、自立的に存在している人間に対峙している物の世界をいわば人間の眼のうちに引き入れることによって、やはりこの隔たりを廃棄してしまいもする。
遠近法が、頭の中のイメージと現実とのあいだに隔たりを保ってくれるからこそ、僕らは間違いや失敗に気づく客観的な眼をもてる。けれど、同じツールが頭の中の思考と現実の隔たりを廃棄してしまいもするので、ぼんやりなんとなくの人は考えているイメージがうまくいっていると現実の世界での間違いに気付きにくくなる。諸刃の剣というのは、まさにそういうことだ。
計画やシミュレーションというのものこの両義性に自覚的でないと、デザインが意図したものを実現するための方法というよりも、意図の実演を邪魔する思い込みとして働くようになってしまう。遠近法同様、デザインという方法の使い方を、本来、判断基準をつくり、常にそれを更新していける実践的練習の場である現実世界から、自分自身が切り離され、出口がみえないネガティブなループに永遠にはまってしまうことにもなりかねない。
ぼんやりなんとなくを避けるためにも、計画すること、デザインすることへのアプローチをもっと仮説検証的なやり方に変えてみる必要がある。
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