転びながら学ぶ
フィルターバブル。
欲しい情報が見つけやすい、届きやすいよう、パーソナライズされた情報提供の仕組みが、次第にユーザーを見たくない情報、対立する情報から遠ざけ、泉に映った自身に恋するギリシア神話のナルシスのように、自分自身の情報のバブルの中に知的に孤立した状態に陥らせてしまう。
確かに、このフィルターバブルは現在の状態をシステムの欠陥ではあるが、いまはまだ、とはいえ、それほど情報システムへの依存度は高くなく、書籍やリアルな人の交流を通して、バブルの外の情報を得る手段はいくらでもある。だから、今後も生きる上での依存度が高くならないよう情報システムを生活の中に組み込めるようデザインすることが鍵だろう。システムの外を残すことは必要だ。
セルフフィルターバブル
しかし、そんなシステム的なフィルターバブルよりも、みずからが新しい情報を避けようとする人間自身の学びの意欲の欠如や、受け身の姿勢の方がはるかに問題だ。セルフフィルターバブルというか、自分の知的世界に閉じこもって出てこない。知的に極度に保守的なのだ。
そういう人は、いまの時点でもフィルターバブルの影響をもろに受ける。積極的に新たな知を得ようとせず、受け身の姿勢だから、システムがプッシュしてくるバブルの罠にはまりやすい。情報システムのフィルターバブルがより保守的な状態に拍車をかける。
フィルターバブルが社会的に問題視されるのは、そうした人が少なくないからだろう。
本来、それは純粋なシステムの問題ではない。
スキル的変身ができない
そうした人の知的姿勢の問題は、新たに知的態度の変更を迫るような情報に出会った場合でも、無理矢理、みずからのフィルターで新しさを濾過して、自分の元々の物事の見方で情報そのものの解釈を捻じ曲げてしまうことだ。
すべての情報を自分のフィルターで捻じ曲げて解釈してしまうから知的孤立の状態が無限に続く。
ただ、本人がそのことを問題だと思わないから、徐々に、変化していく世界からは取り残される。古くさい価値観にしがみつくことになり、社会的な需要にあわなくなる仕事やスキルにいつまでもしがみついて、経済的にも苦しい状態に陥っていく。保守的な人が衰退するストーリーの裏にあるメカニズムの1つだろう。
今後ますます技術やスキルが陳腐化する速度がはやくなっていく状況で、新たな活躍の領域を見つけていくためのスキル的な意味での変身は避けられない。当然、一気に異なるスキルベースの仕事に転身することはむずかしいから、助走としての新たなスキルや新たな仕事の領域での知識やセンスの習得期間は必要だ。
しかし、その際、誰かに教えてもらって習うという受動的なものと思っていたら、とてもスピード的に追いつかないだろうし、たぶん、変身に必要な力は身につかない。
バブルの外に出るということ
学べない人に圧倒的に多いのは、積極的に「まずはやってみよう」という姿勢が欠けていることだ。「どうやっていいかわからない」と平気で口にする。
わからないなら調べる方法もたくさんあるし、誰かに聞くこともいくらでもできる。あるいは、デタラメでもいいから、自分が思いついた方法を試してみてもいい。フィルターバブルの外に出るということはそういうことだ。バブルの外は、自分の知らない領域に出てみるということだ。ようは、わからないからやるのだ。なのに、どうやっていいかわからないでは、そもそもスタンスが間違っている。
どうやっていいかわらかないからこそ、やってみて、その体験(多くは失敗の体験だろう)を通して少しでも何かを得ることがバブルから出るということだ。
外に出て、なお、自分がすでに知ってる成功に預かろうと思っているから出られないのだと思う。
外に出るということは、一回転んでみる、失敗してみること自体が価値なのだ。いや、一回どころではない。転ぶ回数、失敗の回数が多いほど、学びは多いのだから、転ぶこと、失敗することを躊躇っている時点で、学びを得る機会からみずからを遠ざけてしまっているわけだ。
フロイト派の精神分析学者のジャック・ラカンは、精神症に関して、うまくいかない時にだけ理由があるというようなことを指摘している。ようは、精神症の症候が見られるときにのみ、過去のとある出来事が症候をおこす原因としてフォーカスされるということだ。
見過ごしてもいいような日常の一コマが、患者にとっては、何か特別な失敗として意味を持ってしまい、その出来事への否定的態度が症候を引き起こしてしまうというようなことだったと思う。
バブルの中に閉じこもってしまう人の失敗感もそれと同じなのだろう。
その人の既存の価値観において失敗と感じてしまうことを避けたいという気持ちが、外に出ることを躊躇わせ、知的成長から自身を遠ざけさせてしまう。
けれど、実際は、失敗こそ学びである。失敗だと思うのは、間違ったその人自身の思い込みからみた理解でしかない。
押して開ける扉を、引いて開けようとして開かなかったという事象は、引くものだと思ってた人から見れば失敗に思えるかもしれないが、押せば開くということの発見でもある。
それを単に失敗ととるのは、みずからのバブルがもつフィルターから抜け出せていないからに他ならない。
ああ、開かなかったと取るか、あっ、そうか、押せばいいのか!と取るか。同じ事象が学びにもなれば、失敗にもなる。
だから、それは外の世界の問題ではない。あくまで本人の知的スタンスの問題だ。
フィールドという外に出ても、自分のフィルターの外に出られないという問題
フィールドリサーチなどで、何も新しい発見ができないという人がいるが、それも同様だ。
発見できないのは、外の調査対象や調査そのものの方法的欠陥では少しもない。単に調査する人自身が自分の硬い殻の外に出られないというだけの話だ。
発見できなさを外の責任にして、みずからは責任を逃れた感はあるが、実は発見できない要因がむしろ自分のほうにあることに気づかないのは、まさにセルフフィルターバブルの罠にはまってしまっているということだ。
学びの方法であるリサーチで、学びのスタンスがなければ学べるはずはないというだけだ。
であれば、もし発見が得られないと感じたら、みずからの固定したものの見方こそをその場で疑うべきである。何が発見から自分を遠ざけてしまっているフィルターなのか? その理由が見つかったら、実はそれこそが発見である。
フィールドリサーチによる発見とは本来そうしたものも含めたものであるのに、観察や聞き取りで新たな発見を得られた気がしないというだけで、リサーチを失敗だと思うのだとしたら、それは単に自分の価値観、見方の反省をリサーチという良い機会を通じて行うことができていないという知的姿勢の問題なのだろう。
先にも書いたように、今後ますます既存の技術やスキルの陳腐化がはやくなっていくなかで、企業も個人もみずからの得意領域を次々変えていく力はもはや欠かせないものとなっている。
その時、どんどん積極的、意識的に転ぶ場所を自分で見つけられかどうかは、生き残っていくための戦略として不可欠になるだろう。
芸術家は常に新たな可能性を示す緊張した現実の証人であり、人間の本質と人間の世界を形成する挫けることなき精神の自由の証人であり、あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者である。
エルネスト・グラッシが『形象の力』で指摘したこの芸術家の役割は、もはや、変化の激しい社会においては、ある意味では万人に求められるものになりはじめている。特に「あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者」であるという点で。残念ながら、イノベーションに無関係でいられる人など、もはやいない。
というわけで、頭をやわらかく、自分の物差しで何でもかんでも測るのをやめて、むしろ、自分の物差しを折ってくれるような躓きを与えてくれるものを見つけにいくこと。それがいま一番もとめられいる知的スタンスだ。
積極的に躓け!
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