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虹の下で

かつて虹の立つところには市が立ったという。そこが神の世と俗世の交通の場所であったからだ。

網野善彦さんは『日本の歴史をよみなおす』でこう書いている。

たとえば虹が立つと、かならずそこに市を立てなくてはならないという慣習が古くからありました。(中略)勝俣さんは、虹の立つところに市を立てるのは、日本だけではなくて、ほかの民族にもそういう慣習があり、それは虹が、あの世とこの世、神の世界と俗界のかけ橋なので、そこでは交易をおこなって神を喜ばさなくてはいけないという観念があったのではないか、といっておられます。そしてこれによってもわかるように市場は、神の世界と人間の世界、聖なる世界と俗界の境に設定される、と指摘しておられます。

虹の下という神の世界と人間の世界の境に設定される市。それがのちに神社などの神域のまわりに立つようになるのも不思議ではないだろう。

では、何故、そんな場所で市が立てられなければならなかったのか?
それは、かつてモノは縁によって人と強くつながっていたからで、その縁ゆえに普通の形ではモノ同士の交換ができなかった。モノとモノが交換可能になるためには、人とモノとの縁を切る必要があった。それはモノを神にいったん差し出すことによって行われる必要があった。

そこにはいると、モノも人も世俗の縁から切れてしまう。つまり「無縁」の状態になるのではないかと思うので、そうなった時にはじめて、モノとモノとを、まさにモノそのものとして交換することが、可能になるわけです。いいかえれば、市の場では、モノにせよ人にせよ、いったん、神のものにしてしまう。また別のいい方をすれば、だれのものでもないものにしてしまう。そのうえでモノとモノの交換がおこなわれるのではないかと思うのです。

モノは無縁になることで、モノ同士の交換が可能になる。それが神と人の世界の境に市が立てられた理由であったという。

とうぜん、神の世界と人の世界の境であるから、そこは死と隣り合わせの場所でもあり、埋葬地でもあり、葬送儀礼の行われる場所でもあった。
市と死はつながっていた。

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さらに、市は、複数の道路が交差する辻、道の股である巷(チマタ)に立てられた。

赤坂憲雄によれば、チマタは異質な他者や共同体へと開かれた「交通」の場所にほかならなかった。そこら市の立つ交易の場であるとともに、共同体をはみ出て行われる歌垣という性的交歓の場でもあった。

『都市の詩学』で、田中純さんも書いている。
死=タナトスは、エロスとも隣り合わせにあった。

では、モノとモノがそのような形で市で交換されない場合、どうだったのか。

網野善彦さんはこう書いている。

モノとモノを交換する、人と人のあいだでモノが交換されることは、いわゆる贈与互酬の関係になります。そのように贈りものをし、相手からお返しをもらうという行為がおこなわれれば、人と人との関係は、より緊密に結びついていかざるを得ないことになっていきます。これでは商品の交換にはなりません。

縁ごとモノがある人から別の人に移動すれば、その人たちは縁でつながることになるし、送られた相手がお返しをしなくてはならないから縁はさらに強くなる。これは婚姻と変わらない。
それではいちいち縁が広がり強まってやってられないから、市での交換が必要になるし、同じような意味での歌垣での性的交歓も必要になるのだろう。

むろん、そのような縁はこの資本主義の世においては、モノについて動くことなどはほとんどない。ある意味、世界のすべてが虹の下にあるみたいだ。
その世界でオープンイノベーションといって、共同体の枠を超えた活動を図ろうとするものが少なくない。それはかつての辻、チマタで行われたエロスともタナトスともせなか合わせの交歓に本来なら近いものであろう。つまり、そこには余剰があった。無駄や浪費があった。余剰からこそ、見知らぬものは生まれでた。

けれど、いまのチマタでの交歓は、エロスもタナトスも欠いている。それでは縁でつなかった互酬社会でなら生まれたような強いつながりも生じ得ない。

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バタイユは『エロティシズムの歴史』でこう書いている。シャンパンのような祝祭の性質を帯びた溢れんばかりの浪費のために生産される奢侈な品について。

そもそも奢侈な物 -- その真の意味はそれらの物を所有する者、それらを受け取り、あるいは贈与する者の名誉であるような物 -- を生産するということは、有用な労働を破壊すること、なんらかの有用な物を生産することに用いられるはずだった労働を破壊することにあたっている(その点でそれは有用な諸力、生産物を作り出す諸力を蓄積する資本主義とは正反対である)。すなわち産出された物=対象を、光栄ある交換へと捧げることは、それらの物を生産的な消費から引き出すことになるのである。

生産性とは無縁の労働がここにはある。こうした浪費的な交歓こそが辻で、チマタで、行われたものだろう。それは合理的な損得勘定などからは切り離された活動であるはずで、本来、いまのオープンイノベーションなるものもそうでなくてははじまらない。それでいくら儲かるの?という観点からは測れないものがそこにはあるべきだ。

バタイユはこうも書いている。

雅量に基づく交換のうちには、身近な女を直接的に享受することにおいてよりももっと強烈な交流(コミュニカシオン)がある。より正確に言えば、祝祭性は運動の導入を -- すなわち自己の上に閉じこもった状態の否定を、前提としている。したがって貪欲さに最高の価値を置くことへの否認を前提として想定しているのだ。性的な感覚はそれ自体交流であり、運動なのであって、祝祭の性質を帯びている。性的な関係は本質的に交流であるから、それはまず最初から外へ出る運動を要請するのである。

「自己の上に閉じこもった状態の否定」、「最初から外へ出る運動を要請する」。こうしたらああなるという因果からの離脱。計画性の廃棄。
こうした祝祭の空間にこそ、日常的な規則の中からは生まれ得ないものが生じるはずである。
オープンイノベーションとは本来そうした場なのでないだろうか? そこに計画性を期待したら台無しだと思う。

けれど、いま行われている多くのオープンイノベーションは、本当の意味で自分の外に出ようとしない。常識の外に出ないし、計画の外にも出ない。そんな当たり障りもない、エロスともタナトスとも無縁の場所で、未知のものとの交歓など、起こり得るはずもない。余剰も無駄もない潔癖症のような場所で、リスクもとらず何が生まれると思うのか?
そんな乾いて、虹もでないような場所では。

今こそ、虹の下での交歓が必要なのではないだろうか?

#コラム #エッセイ #イノベーション #民俗学 #交歓 #経済

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棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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