読みやすさについて誤解されていること
考える力には、言葉を操る力が不可欠だ。
で、その言葉を操る力には2つの側面がある。
文章という形や口頭での話言葉の形で自分の考えや主張をひとまとまりの言葉として組み立てる力がひとつ。
もうひとつは、文章を読んだり話を聞きとったりする力だ。
関連するところもあるが、それぞれ独立してもいる。読んだり聞いたりの方は、自分の文脈とは異なる、相手の文脈を予測する力が必要だから。
この他人の文脈を読みとるのが苦手で、聞く力、読む力に欠ける人は少なくない。
でも、これは経験なので、卵が先か鶏が先かのところはある。苦労してでも相手が何を言おうとしてるかを考えつつ、話を聞いたり文章を読んだりするしかない。
その中で他人の文脈のパターンが引き出しに増えるから、聞く力、読む力がついてくる。
そのつもりで努力が続けられるかどうかだ。
文章からはじめてみる
さて、しゃべったり話を聞いたりも大事なんだけど、考える力をつけるには、まず文字による読み書きから取り組んだ方がよいと思う。
その方が言葉が目に見える分、思考の組み立てにじっくり取り組めるからだ。見えない話し言葉だと、なかなか組み立てる作業は大変だ。組み立てたつもりでも、自分自身で見直すことがむずかしい。だって見えないのだから。
言葉が見える形になっているというのは大事だと思う。僕自身、ある程度、長い文章になると、頭の中だけでは組み立てられないし、見直せない。
いつも、ここで書いているレベルなら頭プラス、スマホの画面上で組み立てを把握しきれるが、本とか書くレベルだとディスプレイ上だけだと把握しきれなくなる。紙にプリントアウトして流れや構成を確認したい場面がでてくる。
全体が俯瞰できれば、構成を組み直すこともできる。どの順番で話を進めたらよいかも考えやすくなる。
プレゼン用のスライドを作成する場合でも同じだ。僕はほとんどスライド上に、話す言葉を書かないのだけど、画像が並んでるだけでも話の組み立てを見直すことはできる。スライド1枚ずつには何を話すかわかってるから、その並びを見直すのであれば、言葉そのものはなくても画像だけあれば済む。
全体を俯瞰できるようにするというのは、そういうことでもある。
自分の言葉なら、それで済む。けれど、他人の言葉はそうはいかない。だから、書くこと以上に、実は読む力の方がハードルは高いのではないかと思っている。
読むということ
読むということは、先にも書いたとおり、相手の文脈の理解が必要になる。文脈がわからなければ、わかるということはない。言葉そのものは読めても、文脈がわからなければ、意味はつかめない。意図などは以ての外だ。
とはいえ、相手の文脈を完全に理解するというのは無理だ。おそらく、こういう文脈での言葉だろうという予測の精度をどれだけあげるかということでしかない。
その意味では、相手の文脈を理解しようということではあるが、自分で仮説の文脈をいかに組み立てられるかということでもある。
だから、自分で文書を組み立てられない人は、他人の文章もちゃんと読めない。逆に言えば、他人の文章を読むことを通じても、言葉で考えを組み立てる力を鍛えることはできるということだ。
ある意味、自分で文章を書くほうが他人の書いたものを読むより楽だったりもする。自分で書けても、理解がむずかしい他人の文章はいくらでもある。きっと逆に感じている人が多いと思うが、読むということは、そのくらいむずかしいことだと思う。
読みやすいのは、ネット記事より実は本
あと、考えてみれば、当たり前なのだが、人にはそれぞれ言葉の組み立てのクセがあったり、言葉を紡ぐ背景としての生活があったりするから、 同じ人が書く文章は、複数の文章があっても文脈は似てくる。似てるのだから、ひとつ文脈をつかめば、他の文章も理解しやすくなる。
そこでわかるのは、手っ取り早く文章読解力をつけようと思うなら、やたらと多くの書き手の文章を雑多に読むより少数の書き手の文章に絞って読むようにした方がいいということだ。
さらに言えば、同じ人の文章を読むにしても、ネット上のブログなどの細切れの記事より、長い一冊の本の文章を読む方がいい。文章が一貫しているから読み進むうちに文脈が理解できる。いったん文脈をつかめば、あとは読みやすい。だから、本を通じて文脈理解力をつけるトレーニングをした方がいい。
けれど、多くの場合、読むのが苦手な人ほど、長い本より、短いネット記事の方が読みやすいと勘違いしている。長いから大変だと思って本を読まず、むずかしいネット記事ばかりを読む。
でも、細切れの記事の文脈を理解するのはむずかしいから、結局はまともな理解の得られない。その無理解のまま、自分でもなんとなくわかったつもりになれる特定のフレーズだけを誤解した形でうけとるということを繰り返すことになってしまう。もちろん、それではいつまで経っても、他人の文脈のパターンの引き出しが増えず、読みとり力はつかない。
読むことを楽しめるように
自分に波長があう=文脈を共有している人の文章しか読まないのも、読解力が鍛えられない理由だろう。なんでもそうだが、力をつけようとしたら、多少、自分に負荷をかける必要はある。
それに自分とは違う文脈を持った人の話に触れることができることこそ、文章を読むひとつの楽しみではないだろうか。もちろん、それは話を聞く場合でも同じ。その時、どうせなら相手の話をできるだけ理解できた方が楽しいし、有意義なはず。
そして、いろんな人の文脈が理解できるようになった方が、考えるときの幅も広がる。いろんな角度からの発想や検討ができるようになる。そのことはどんな仕事をする上でも役に立つように思う。いろんな人と仕事を進めることができるようになるから、やれることの領域も広がる。
読むことの力をつけるということは、実はそのくらい応用が効くことなんだと思っている。
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