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手をつける

哲学書を読むのはあんまり得意ではない。抽象度が高いからだ。
だが最近は、そんな哲学書よく読んでいる。新しい哲学に興味があるからだ。

自分が興味をもったことにちゃんと手をつけられるかどうか、それは大事なことだと思う。興味があるものに、手をつけることによって新たな知識が増えていく。しかし、それは単に外にある知識を自分の内へと移動させるということを意味しない。知識を増やすということは移動ではなく、創作なのだと思う。

そう。学ぶというのは客観的な知識を手に入れることでは無い。むしろ既存の情報に自らの解釈で手を加えることで知識は得られる。言うなれば、知識というものは作り物だ。創作だ。

そんなことを、ブリュノ・ラトゥールの『近代の〈物神事実〉崇拝について』を読んでいて思った。

ラトゥールは、近代人が信じている奇妙な信仰に着目する。
人の手が加わったものは作りもの=フィクションだと信じる近代人の信仰に。

キリストの顔、聖母マリアの肖像、ヴェロニカ聖顔布など、他の仲介物が関与することなく天から降って来たとされる聖像の例は多い。取るに足りないある人間の画家がそれらの聖像を製作したということを示すことは、それらの力を弱め、それらの起源を穢し、それらを冒涜することに等しいだろう。したがって、像に手を結びつけることは、像を毀損し、批判することに等しい。

聖像は、人が製作したのではなく、天からもたらされたが故に、聖像である。人が製作したものであれば、それは偶像でしかない。

人の手によるまやかしの技によるものではなく、人間そのもの同様に神の手による被造物であるがゆえに聖性を帯びる。ゆえに、人の手がそこに入れば、それはフィクション、模造物でしかないという考え。
この考え方はいったいなんだろう?
本の前半部分でのギニアの黒人に対するポルトガル人の問い。
「石や粘土や木で出来たそれらの偶像は、本物の神々なのですか」という問いに躊躇なく、無論その通りだと答えるギニア人。その態度に眉をひそめるポルトガル人。
人の手によって作られたものは本物の神々ではないという考え。八百万の神々の国に住んでいると、ギニア人の感覚もわかる気がするが、ヨーロッパの人々には人の手が入ったものに聖性を見ることはできないのだろう。

しかし、これは宗教に関してだけにみられるものではない。
宗教とは正反対に位置する科学においても事情は同じなのだ。

科学についても同様である。そこでもまた、客観性はアケイロポイエートスであると、つまり人の手で作られたのではないと仮定される。人間的な科学製作の現場で手が働いていることを示すことは、客観性の聖性を穢し、超越性を崩壊させ、真実へ到達しようとする一切の要求を禁じ、手にすることのできる唯一の光源を灰に帰す行為だとして、糾弾される危険を冒すことである。

ここに客観的な知こそ、真実の知であるかのように人々を惑わすまやかしがある。

人の手が入らない客観性。
アケイロポイエートスとは、人の手によって作られたものではないものを示すギリシャ語。科学者が科学的に語るとき、このアケイロポイエートスが求められるが、なぜ、それほどまでに人の手、人工的なものが混ざることを拒絶しようとするのだろうか?

物神事実。Faitiche
「fetiche フェティシュ」と「faith 事実」の組み合わせからなる造語をタイトルにもつ、この本でラトゥールは、物神を拒絶するようにみえる近代人が実は非常にねじ曲がった形で物神崇拝をしていることを指摘している。

近代人が--そのことを誇りに思うにせよ、そのことによって絶望するにせよ--信じていたこととは逆に、彼らが物神を持たないようにも、崇拝を持たないようにも、もはや思われないのである。彼らはそれを持っている。しかも全ての中で最も奇妙なそれを。

「彼らは、彼らが製作している物に対して、彼らがそれらの物に与えている自立性を否認」するのだとラトゥールはいう。あるいはまた、「それらの物を製作している人々に対して、それらの物がそれらの人々に与えている自立性を否認する」のも近代人の態度である、とラトゥールは指摘する。

この製作物の自立性を否認することを通じて、彼らは、人の手による製作物に対して、

支配性を保持することを望み、その支配性の源泉を行為の起源としての人間的主体の中に見出すことを望む。

だが、実際には、人間がみずからの製作物に対して、そのような支配性をもつことは不可能だ。製作物であろうと、自然物となんら変わらず、人がそれを完全にコントロールすることなど不可能だ。
でなければ海洋ゴミも宇宙ゴミも空き家も廃炉となった原子炉も問題になどなるはずがない。いや、そもそも製作をするという、自分(たち)自身の行為すら、人間は支配などできていない。

行動する者は自分が行うことを支配しておらず、他の多くのものが行為へ及び、その行為はそれらのものを超過するのである。しかしながら、主体を絶望の海に沈めることを許可するものは何もない。主体を溶解させることのできる酸はどこにも存在しない。主体は、自らが所有していない自立性を、その主体のおかげで生じる諸存在に与えることで、自立性を受け取るのである。主体は媒介から学ぶ。主体は諸々の物神事実から生じる。物神事実なしでは主体は死ぬだろう。

支配性をもたないがゆえに、自立性した製作物を通じて、人自身も自立性をうけとることができる。
これが冒頭書いた学びに他ならない。
みずから手をつけて「製作」しなければ、この自立性をうけとることはできないのだ。学びに客観的なところなど、どこにもないということがわかるだろうか。

つまり、学びには批判精神が必要だということにもなる。

より一般的に言うならば、批判精神とは、宗教の聖性、物神への信仰、超越性への崇拝、天から送られた聖像、イデオロギーの力などを解体するために、至る所で人間の手が働いていることを示すものである。人間の手がしかじかの像の製作に従事したことが分かれば分かるほど、真実を伝達しようとするその像の力は弱くなる。

真実を伝達しようとする力が弱くなる一方で、真実とは異なる意味のある学びを得ることが批判精神なのではないだろうか。つまり、他人によって製作された像をそのまま信仰するのではなく、その偶像を破壊しつつ、みずからの像を創造すること、それが学びなのだろうと思う。

手をつけること。やってみること。
学びは常に、みずからが手に触れた出来事との間にしか存在しない。あらかじめ真実が存在するのではなく、それは常に創造されるべきものなのだから。

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