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自立共生(コンヴィヴィアリティ)
すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての理論を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。この限界内でのみ機械は奴隷の代わりをすることができるのだし、この限界をこえれば機械は新たな種類の奴隷制をもたらすということを、私たちは結局は認めなければならない。教育が人々を神神的環境に適応させることができるのは、この限界内だけのことにすぎない。この限界をこえれば、社会の全般的な校舎化・病棟化・獄舎化が現れる。
人がみずからの意思で行動することを制限する奴隷制。学校が、病院が、輸送や郵便、その他のもろもろの参加主義的しくみが、人間社会に度を越して採用されると、人間の機械やしくみへの隷属がはじまることを指摘するのは、『コンヴィヴィアリティのための道具』のイヴァン・イリイチだ。
1973年に書かれたイリイチのこの本を、僕は同じカトリックのマーシャル・マクルーハンのメディア論との類似性も感じつつ読み進めている。道具=メディアは、人間の身体を拡張するとともに、隷属させるというわけだ。
なぜ、自立共生(コンヴィヴィアリティ)か?
イリイチは、人間が産業主義的道具やしくみへの隷属から逃れることができ、自立的な人々が相互に共生しあう社会を"自立共生的(コンヴィヴィアル)"な社会と呼んでいる。
一旦こういう限界が認識されると、人々と道具と新しい共同性との間の3者関係をはっきりさせることが可能になる。現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は"自立共生的(コンヴィヴィアル)"と呼びたい。
イリイチが指摘するのは、教育にしろ、医療にしろ、産業主義的な社会においては、道具はある一定の範囲では人間に利をもたらす(「最初の分水嶺では、新しい知識がはっきり指定された問題の解決に適用された」)が、ある時点から度を超えると、専門家による専制的搾取がはじまり、人々はそれに隷属するかたちでみずから生きることの選択肢を失う(「第2の分水嶺になると、それまでの達成によって立証された進歩が、価値のサービスという形をとった社会まるごとの搾取に対する理論的根拠として用いられる」)ということだ。
学校が何が正しいかを決め、病院が何が健康/病気を決め、人々はそのレールに乗って生きていくしかできなくなる。それどころか、学校が無知な者を生み出すこともあれば、病院が新たな病気や患者を使っているのだ。
僕らは自分で生きていくことができなくなっている。
それに対してイリイチは、もう50年近く前に「自立共生(コンヴィヴィアリティ)」を提唱したのだ。
香港のタンザニア人たちの自立共生
自立共生について考えるとき、僕が真っ先に思いだすのは、最近読んだ小川さやかさんの『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』で描かれた香港で暮らすタンザニア人たちのたくましく自立したコミュニティだ。
香港で仕入れた中古車や家電などを本国に貿易する際のブローカーなどによって生計を立てている彼らに興味をひかれる理由のひとつは、既存のしくみを通常の用い方とは異なるかたちで、自分たちに都合のよくハックして、搾取を免れているところだ。
たとえば、香港とタンザニア間の貿易にともなう送金に関しては、既存の金融機関を使えば大きな手数料がかかるので、両国のあいだに輸入と輸出の双方の流れがあることを利用してその双方をからむ業者があいだに立つことで、実質的な2国間のインフォーマルな送金を代行している。
あるいは、香港での売り手と本国での買い手をつなぐしくみに関しても、ECやメルカリ的なピアトゥピアの売買マッチングのプラットフォームなどに依存することなく、FacebookとWhatsAppの機能をうまく使うことで販売手数料などを発生することなく、商売を可能にしている。
そんな彼らの特徴は以下の引用にあるように、それぞれが「独立自営」を営むことを大事にしながら、どうしても不安定になりがちな個々人での商売を、たがいの共助のしくみもゆるくもつことで、安定させている点だろう。
つまり、彼らは「客筋の不侵犯」という原則のもとでニッチを分け合いながら、商品や仕入先、ビジネスのコツや交渉術などは「コモンズ」としてみなでシェアしあう。前述した通り、人生逆転のチャンスをつかみに香港に進出した彼らは独立自営を好んでおり、業者に労働者として雇われることにでなく、他のブローカーと共同経営することも好まない。そのような彼らが、客筋の不侵犯により緩やかなニッチを確保しつつも、商売のやり方を積極的に教授することでライバルを増やし、ライバルとの間で情報を「シェア」していくことは、みずから商品や仕入れ先をめぐる競争を激しくする行為にもみえる。だが、ここには、「ついで」に無理なく助け合うことで香港での生活を成り立たせている「生活の論理」と、市場競争という「ビジネスの論理」とのあいだにセーフティネットを創出・維持する、「仕事のしかたをシェアする実践」があるように思われる。
まさに、イリイチがいう「自立」と「共生」がうまく噛み合っているように思う。
途上国なのはどちら?
もちろん、その前提にあるのは、グローバル資本主義のフォーマルなしくみを利用するための財力が香港で暮らすタンザニア人たちにはないということもあるだろう。フォーマルなサービスを正規の料金を支払って使っていたら彼らの商売は上がったりだ。
逆にいえば、グローバル資本主義のしくみはそうした人たちを排除するものであり、コモンズの原則からは大きく外れたものなのだといえる。
それが格差の上と下を区別するものと機能してしまう。そうであるがゆえに先進国と途上国などという言い方が適用されるが、このタンザニア人たちの自由な生き方を見ていると、グローバル資本主義のさまざまなしくみに雁字搦めにされて自由に身動きのとれなくなっている僕らのほうがはるかに途上なんじゃないかと思うのだ。
タンザニア人たちの独自のプラットフォームにおける「効率性」よりも「気前よく与える喜び」「仲間との共存」などを大事にしている姿勢をこんなふうに評価する小川さんからは、イリイチのいうコンヴィヴィアリティの具体的なありようを教えてもらえると思うのだ。
それゆえ「効率性」を追求して、彼らのプラットフォームを市場交換に適した形に洗練・制度化させていくことは、本来の目的であった「気前よく与える喜び」「仲間との共存」「遊び心やいたずら心」「独立自営の自由な精神」の価値より経済的価値を優先させていくという矛盾を生起させる。
プラットフォーム・コーポラティビズム
自立共生ということで、もうひとつ思いだすのは、佐久間裕美子さんが『Weの市民革命』で紹介している、Uberをはじめとするプラットフォームを通じて仕事を得ているギグワーカーたちの孤独なあり方を助ける共助のしくみとしてのプラットフォーム・コーポラティビズムだ。
Uberなどのプラットフォームは、個人が職を得る機会を与えているとも言えるが、労働者の側は多くの手数料をプラットフォーム側にとられてしまうし、彼らの生活を守るためのなんの保障もプラットフォームからは提供されない。それはUberドライバーにしても、Amazonの倉庫で働く人も同様だ。
彼らの働きで、ユーザー側へは利便性が提供される一方で、彼ら労働者からはあらゆる権利が奪われていく。
そうしたプラットフォーム中心のギグエコノミーに対する労働者側からのカウンターとして、登場したのが「プラットフォーム・コーポラティビズム」という考え方だ。
ギグエコノミーにおいて、雇い主は労働者に単発・短期の対価を支払うが、そこでは労働者としての権利はほとんど保障されない。「プラットフォーム・コーポラティビズム・コンソーシアム(PCC)」を立ち上げた[トレバー・]ショルツがオンライン・キットや授業を通じて促進するのは、労働者のグループがオンライン上にプラットフォームを構築し、個人の代わりに団体として仕事を引き受け、雇い主から集金した利益を労働者に分配する協同労働組合(コープ)だ。
かたちは違えど、PCCが提供するキットや授業は、香港のタンザニア人たちと同様に、独立自営ではたらくギグワーカーたちの自立と共生を可能にする「コンヴィヴィアリティのための道具」だといえる。
こうしたなか、PCCのマニュアルをもとに「アップ&ゴー」というクリーナーのコープが生まれた。一見よくある派遣サービスのように見えるけれど、メンバーが組織の所有権を共有し、顧客が支払う料金の95%はクリーナーに支払われる。
と、佐久間さんはこのキットを使った事例も紹介してくれている。
ステイクホルダー・キャピタリズム
こうした自治的なしくみによる自立共生が生まれるとともに、政策レベルでも、こうしたギグワーカーを保護するセーフティネットを用意する動きもみられるのだという。
「ウーバー」ドライバーたちによる労働争議が起きていたカリフォルニアでは、すでにギグワーカーを保護する策が講じられ始めていたが、その他の地域でも一気に議論が進み、ギグワーカーでも失業手当を受け取れたり病欠が認められたりする政策が新たに導入された。労働人口の大多数を占めるギグワーカーたちにセーフティネットを提供しなければ、経済全体に大きな負担がかかるの予想されたからだ。
こうした公的なセーフティネットと、自立共生のPCCのようなしくみが組み合わされることで、これまで搾取の対象となりやすかったエッセンシャルワーカーの仕事もやりやすい社会がつくれないだろうかと思う。
それは次のように、企業が事業を継続するためにも必要なことなのだから。
労働者たちの保護を称えるこうした議論は、従来の資本主義から、全ステイクホルダーを重視する「ステイクホルダー・キャピタリズム」へのシフトを求める議論をもさらに促進した。パンデミックという非常事態のもとで企業が事業を続けていくためには、ベンダーやサプライヤーとの連携、従業員や顧客を守るための安全対策は不可欠で、それが必然的にステイクホルダーすべてを守るように促がすのだ。
企業もまたこの社会で、独立自営の人々が共生した社会のなかで生きていくための変化が求められるのではないだろうか。
奴隷の身体とブルシット・ジョブ
ここでは奴隷は家財または生命をもった道具になぞらえられている。そして言い伝えにあるひとりでに動くダイダロスの彫像やヘパイストスの三脚架のように、命じられたとおりに動くことができるものと想定されている。「自動人形」ないしは生命をもった道具としての奴隷というこの定義については、あとでも立ち戻る機会があるだろう。ここではさしあたり、奴隷は、ギリシア人にとっては、近代の用語でいうと、労働者の役割を演じるよりは機械および固定資本の役割を演じるものであったことに注意しておきたい。だが、やがて見るように、それは特別の機械であって、生産のためのものではなく、たんに使用のためのものなのである。
こう書くのは『身体の使用 脱構成的可能態の理論のために』でのジョルジョ・アガンベンだ。
ここで明らかにされているのは、古代ギリシアにおいて、奴隷に期待されていたのは、生産ではなく、他者が使用できることだったということである。
つまり奴隷が機械のような扱いだったとしても、それは何か価値を生みだす機械として期待されたのではなく、価値を生まなくてもよい、ただの使用に使えるブルシットな仕事をさせる機械として期待されていたのだといってよい。
もしある朝起きて看護師やゴミ収集に従事している人びと、整備工、さらにはバスの運転手やスーパーの店員や消防士、ショートオーダー・シェフ〔手早くできる料理を担当する料理人〕たちが異次元に連れ去られてしまったとすれば、その結果はやはり壊滅的なはずだ。小学校の先生たちが消え去れば、学校に通う子どもたちのほとんどが1日や2日は大喜びするだろうが、その長期的な影響は甚大であろう。(中略)ところが、ヘッジファンド・マネージャーや政策コンサルタント、マーケティングの教祖、ロビイスト、企業の顧問弁護士、あるいは大工が来なかったことを謝罪するのが仕事であるような人びとに、同じことをいうことはできない。
デヴィッド・グレーバーが『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』で、ブルシットでなくてもよい仕事だとするのは、前者のような人たちの仕事ではなく、後者のような人たちの仕事であり、ようはわけのわからない大して必要でもない仕事のために身体を他者に使われている奴隷の仕事であり、イリイチも断罪しているような専門家の仕事だ。
それはもはや世の中に価値を生みだしもしないのに、社会からさまざまなものを搾取し、本当に必要な仕事をしている人たちより高給を得ている。
愚かさの認識
イリイチは、こう書いている。
学校で身につけた"知識の蓄積"の価値を信じこむようになるのとおなじく、人々は、高速度が時間を節約してくれると信じ、所得水準がよい暮らしの意味をきめると信じるようになるし、そうでなければその代わりに、より多くの製品の生産よりもむしろより多くのサービスの生産のほうが生活の質を高めると信じるようになる。(中略)抽象的なかたちで述べられた諸価値は、人々を奴隷化する機械的過程にまで意味を切りさげられている。この奴隷状態は、自分が自分の愚行に対して責任のある愚か者なのだということを、よろこんで認識することによってのみ打破されるのだ。
僕らは、自分たちが愚かな奴隷であることを認めて、その状態を放棄することで、自立共生(コンヴィヴィアリティ)なしくみや道具を手にしていかなくてはいけないのだと思う。
ブルシット・ジョブの増殖によるより広範囲な社会的帰結を考慮に入れるならば、状況はなおいっそう途方もなくみえてくる。生産性総体に重大な影響を与えることなく、わたしたちが従事している仕事のおおよそ半分をなくすことができるといったことが本当に正しいのであれば、なぜ、残りの仕事を再分配してあらゆるひとが1日4時間の労働ですむようにできないのか? (中略)なぜ、グローバル労働機械が停止をはじめないのだろうか? 少なくとも、おそらくそれは、地球温暖化にブレーキをかける最も効果的な方法であるはずだ。
と、グレーバーも書いているように、それは喫緊の課題である気候変動の問題に対する解決策のひとつでもあるのだから。
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