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怠惰という言葉が表す意味

言葉が何かひとつの意味を正しく言い表してると信じているとしたら、大間違いだ。

けれど、何故だか、みんな、相手と自分が同じ単語、言葉を用いていたら同じことを話していると思い込んでしまう。そして、相手と自分の認識が合っているということを、同じ言葉を用いたということだけで疑わなかったりする。

言葉が何らかの対象と1対1の関係で一致していて、それゆえに同じ言葉を使えば同じ対象について話しているのだということを、どうして無邪気に信じられるのだろうか?
何故、あなたの「正義」が、あなたの「友情」が、あなたの「青」が、他の誰かと同じものを指しているなんて何の疑いもなく信じられてしまうのか?

さて、ジョルジョ・アガンベンの『スタンツェ』を読んでいて、中世における「怠惰」が、いまの、働くのをサボるとか、やるべきことをやらずにいるとかいう意味とはまったく異なっていたことを知って、なるほど、と感じた。
だから怠惰が7つの大罪の1つに挙げられていたのかと納得する。

教会博士たちが怠惰の本質に与えた解釈を検討してみるなら、それが怠慢のしるしのもとに置かれているのではなく、苦悩と絶望のしるしのもとに置かれていることがわかるだろう。教父たちの観察を厳密かつ網羅的に集めて『神学大全』に統合した聖トマスによれば、怠惰とはまさしく「陰鬱の形象」であり、より正確に言えば、人間に本質的な精神性にかかわる苦悩、つまり神から授けられた特殊な尊厳にかかわる苦悩なのである。

と。
ここでいう聖トマスはトマス・アクィナスのことだ。13世紀のスコラ学を代表する人。

その時代、怠惰は、怠慢で何かをサボって楽をすることどころか、むしろ苦悩だったのだという。神を前にしての苦悩。サボるとかいう消極性とは明らかに別のものを感じる。

そして、

怠惰な者を苦しめるのはそれゆえ、悪の意識ではなくて逆に、善の中でもっとも偉大なものへの配慮である。怠惰とはまさしく、神の前で人間が立ち止まるという義務に直面して、目を眩ませて怯えながら「後退りすること」である。どうやっても避けられないものを前にして、恐怖のあまり逃走するという意味では、怠惰は死にいたる災いである。

といった具合で、サボって楽になるという話とは逆で、怠惰は人に苦しみを与える。だからこその大罪なのだろうと思う。

それを知って、あらためて見るブリューゲルの作品「怠惰」はまったく違うものに、見えてくる。

心理学の用語を使うなら、怠惰な者の後退りとは、欲望の喪失を暴露しているのではなく、達成できないにもかかわらず、むしろその欲望の対象になろうとしているということなのである。対象を欲する意志の倒錯こそが、彼のものである。が、対象へと導く道は、彼のもとにはない。自己の欲望への道を、彼は欲すると同時に遮断しているのである。

怠惰に見られる、この両義性。
ここに2つ前のノートに書いた、メランコリーとエロスに共通する諦めと欲望の両義性がある。

さて、言葉の多義性の話に戻る。

中世といまの違いほどではないにせよ、言葉にこめる思いは人それぞれである。だから、細かな差異も安易に見逃さず、大事なときはその差異についてしっかり明らかにする努力を怠ってはいけない。

そう、新旧両方の意味で、その場合、怠惰は罪である。

#言葉 #アガンベン

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