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道成寺を終えて
私の披キのとき、おシテ方から
「道成寺で間違えるということはありえない。すべてが習いなのだから」
とお聞きしました。
普通の能は、ほとんどが汎用性のあるパーツで構成されています。
脇能(神様がシテの能)の手附にはよく
「高砂同断」
と書いてあります。
「ここは高砂と同じことをやればよい。それ以上は言わなくても分かっているね?」
というわけです。
しかし、例えば高砂と嵐山の一声で比べた場合、鼓の手の寸法は同じですが、嵐山の方が謡の節が少ないのです。
そういったことを考えて、ハマり良いようにアシラっていかねばならず、応用力が問われることになります。
それに対して、道成寺では最初の次第から道行、物著、乱拍子、急ノ舞、鐘入、ノット、祈リ、キリに至るまで、すべてが特注の、道成寺用の作りなのです。
それぞれが、ここはこれしかない!という形なので、やることは極っています。
全部決まっていることが出来ないのはおかしい。
そこで冒頭のおシテ方の言葉になります。
(たぶん続きます)