助け合う理由があってのコミニティ
NHKで今日、石見銀山物語として、島根県の小さな街にUターンしたり、Iターンしたりした人達が放送されていた。
その映像を通して感じる街の風通しの良さは、都会では全く感じられないものだった。
学校に向かう子供たちに街のおばあちゃんが声を掛けたり、家族同士がより合いながら、街を起こしていくような団結感は羨ましい。
東京に住む私たちにとってコミニティとは何か?
隣に住んでいる人も知ることもないし、会話などは考えられない。
街が子供たちを包み込むような暖かさは特にない。
まだ子供がいないだけで、そのような場所がいっぱいあるのかもしれないが、
以前社内のミーティングでもっと伸び伸びと子供を育ててあげたいが、東京にはそういう場所がないと後輩が言っていたので間違いない。
だだっ広い公園がないという物理的な問題というよりも、この子供をちゃんと育てていこうという街の中の連帯感がないことが、子供をその街で自由に過ごさせることができないことに繋がっているように感じる。
そんな状況の中で子供を2人以上育てられるのか?といえば、正直不可能に近いだろう。
この映像の中で、もう一つ象徴的で良いシーンがあった。
それは、10歳くらいの子供と60歳くらいの子供が趣味のバードウォッチングを一緒にしているところだ。
趣味歴が長い人が、短い人をサポートする。
それは、大人子供関係なく趣味での繋がりだ。
二人の会話も、本当に友達のようなやりとりもあり、無償に愛くるしいものがあった。
きっと、その地域では、それぞれの家族が、それぞれで生活を成立させていけるほど、コンビニでご飯を食べるなどはない。
何かにつけて、助け合いが必要になる。
それをどのように捉えていくか?
社会に出て稼ぎ、プライベートは、家族という小さなコミニティの中で成立させるのか。
それとも、社会とプライベートをある種混ぜ込みにした共同体としての生活を過ごしていくのか?
人と接することによる煩わしさはきっとあるだろうが、改めてイノベーティブな空間とは、このような共同体的な状態から発信される何かなのではないか?と感じたりまする。
何が人生を裕福と感じさせるのか?
密結合したコミニティにて自身の居場所を見つけるか、疎結合の中で色んなコミニティに属するか。
自分一人であれば、疎結合で色々なところと繋がり合うことが出来ただろうが、今は違う。
どのようなコミニティとどのように繋がり、子供をある程度面として育てていくことができるなか?
そのようなことを考えさせられる番組だった。
もしよかったら見てみてください。