「比較文化論の試み」にいわゆる「自己分析」の源流を感じたという話
このnoteの三点要約
・比較文化論をやっていかないと、日本の文化が死ぬらしい
・自分のルーツを歴史から掘り起こして言語化する、という比較文化論というアプローチは、就職活動でおなじみ「自己分析」にも通ずるものがあると思った
・2020年に入ってからも、相互理解が欠落しているコミュニケーションは多いと思った。例えば相互理解が欠落のもと議論をやっているネット言論空間は乱脈を極めていることがわかる
所感
私は結構決まりとかしきたりに厳格な人間でして、外部が理想としている人間像みたいなのが存在すると思って今まで生きていました。
「何事も最低限守るべきラインというものがあって、それに従わなければ何かと失敗したり、付き合いづらい人間に思われたりする。人というのは、赤点を回避するくらいの努力はしなければならない」と思っていました。
で、その考え方は世間一般的に至極当然なものと考えていました。
それゆえ、ある程度の進学校だった出身校では成績が落ちぶれて「格落ちの人間」として慎ましやかに生きたり、
人間関係を「バッドコミュニケーションを回避するゲーム」と捉えて誰とも話したくなくなったり、
「身だしなみは大学生の最低限のマナーだ!」と言って泣きながらナンパ師の容姿改善noteを買うなどしていたわけです。
異文化理解なき日本の文化は滅ぶ
このことを人に話したら、
「自分が正解であると信じている基準も、そして『正解である基準に従わねばいけない』っていう考え方そのものも、普遍的でなかったりするぞ」
と言われ、この本を勧められました。
読んでみて得られた粗い所感ですが、人間というのは、所属している文化圏によって結構違った思考回路を持っているんだなあと感心しました。
我々から見ると海外の言語へのこだわりはやたら強いものんだなあと思います。これは「ハイコンテクスト」とか「ローコンテクスト」とか、そういう表面的な言語特性の問題ではありません。
その源流にあるのは自文化の死を防ぐために2000年以上自己弁護を続けてきたからなんですね。
著者は旧約聖書を聖典としていたユダヤ・アラブ系の民族をまとめてセム族と呼称していますが、ギリシャやインドのでかい文化圏に挟まれていたセム族は、聖所や神に対して抱く特別な意識を言語にしないと生き残ってこれなかった。
単語一つとってもそうです。文化が違うと意味が変わってしまいます。例えば「共感」と"emphasys" とか、日本語では「神」と訳される単語とか。英英辞典を読めとよくいわれる所以です。
単語の意味も、根本的な考え方も、しっかり言語化しないと、相手に納得してもらえません。
「我々日本人のアンチ宗教・スピリチュアル的な考えは明治啓蒙主義の遺物である」みたいに。
ただ、日本はそれをやんなくてよかったから、たまたま経済成長ができて生き残れただけ。
このままだと海外から交渉のできない、よくわからん国と思われて終わる。
まあ、こうしたことのないように文化をしっかり比較することが大事だと思いました。
文化の比較って具体的に何すればいいの?って話は、当note後半の要約部に書きました。
で、結局今はどうなってるの?
この本は1976年に書かれた本ですが、翻って現在の日本で異文化の相互理解どうなっているのでしょうか。
筆者も言及していますが、この「異文化理解の重要性」というのは、日本文化対西欧文化とか、日本文化対アラブ文化みたいな、大きなくくりでの話に限りません。
親対子とか、ロスジェネ課長対Z世代の新人みたいな、結構個人を想定した話でもいえる話です。
まずSNSを見てみると、まあどうにもなっていないことがよくわかりますよね。
ジェンダーとか政治系とか、自己理解ゼロ、相互理解する気もゼロの集団が糞を糞で洗う見苦しい誹謗中傷合戦をしているわけです。まあひろゆきが人気になるだけマシだな、日本って平和だなーと思います。
キャリア関係のクラスタを見てみると、なんとなくですが、求職者側(学生、社会人)と人事採用担当の間で分断が発生している気がします。
親子関係のような、もっとミクロで身近な場所はちょっと実感わかないんですが、親が自分の考えを子どもに押し付けがち、みたいなのは昔から変わっていないと思います。
10年もすれば世の中の常識も仕組みもある程度変わるので、相互理解は多少は難しくなりますよね。
大学での活動とかでも感じる場面はあると思いますが、日本のサークル活動での「相互理解」って、そこそこ仲良くなって飲み会の三次会ぐらいになって、はじめて行われそうな雰囲気です。
4年という時間は異文化を受容するには短すぎますから、入部初期段階でやんわりパージするわけですね。
比較文化論と「自己分析」
この本は日本文化と異文化の比較に注目して話が展開されていますが、就職活動でよくやる自己分析にもおいても結構この話はいえると思います。
「チームでやってるんだからチームに貢献するのは当然である」といっても、
なんでチームで頑張れるの?
あなたはどういう時に頑張れるの?
それを言語化できないと、企業側は適性を判断することができない。原体験の深掘り、というやつです。
「仕事をする上では自己分析が必要である」みたいな考え方が歴史的にどこがルーツなのかっていうのは結構興味あるんで、今後の課題にします。
コンピテンシー面接なんてものは、戦前の時点で存在してないと思うんで。誰か面白い本あったら教えてください。
結論
自己分析って、この本と重なる部分あるんじゃねー!皆さんも学校や職場の人間から理解されていないと思ったら、自分の過去を掘ってみるといいんじゃないでしょうか。で、それをちゃんと説明できるようにするといいと思いました。これができると、就活無双できると思います。
今回よんだ本
山本七平(1976)『比較文化論の試み』講談社。
要約と各章の雑記 ※次回以降ここから先有料にするかも
全体の要約
同じである!という結論を導くためにやっているのは、相互理解を放棄していることになります。
1 ひとりよがりの日本人
2 民族による臨在感の違い
3 セム族の臨在感の特徴
その意識の強さは、メッカ巡礼が生涯働く目的となるほどである。
4 臨在感の歴史的裏づけ
5 ショフティムと多数決原理
言語化の重要性を筆者は再三主張しているが、この節以降その理由が説明されていく。
6 言葉を重んじるセム族の伝統
7 正統と異端・護教諭とその裁定
ローマ伝統の法に従っての裁定ではなく,ユダヤ・ギリシャの両伝統の法に基づく裁定を行っていた(p.78 ll.13-15)。相手の思想バックボーンに基づく思考回路、感じ方(プロトコル)で対話をすることが大事。ユダヤ、ローマはお互いにプロトコルを共有し合って対話をしていた。現代日本はプロトコルの共有とか行っていない。系統立てて他の文化に説明し,自国文化を弁護することが必要。単一民族国家ゆえに同じ単語で違う意味の言葉に鈍感。
8 言葉の差――神概念の相違
9 ものの見方の差
日韓論でも、国内お互いの立場が双方の国を善玉ー悪玉の二元論で見ている。
はじめに・あとがきの要約
経済的破産が「自然法へのはからい」に捉えられ、即文化的破綻に陥る、といった迷信を信じ、西欧の「世界普遍の真理」であるとした。その結果、鎖国しながら外国の文化を取り入れる矛盾が日本の思想を見失う事態となった。