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【89冊目】ゆっくり、いそぐ

2023-8-18

夏休みなので帰省している。道中の新幹線などで本を読めた。


今回読んだ本は『ゆっくり、いそげ』

この本はずーっと積読だった本だ。読みたい読みたいと思いながら読めずにいた。

先日の古本市で買った気がする。

思い返すと、「私がやりたいことはあるのだろうか?」「私のやりたいは何だろうか?」ということに悩んでいた時にオススメされた本がこれ。

探してみるとnoteに書いていた。

「憧れやすくて、基本的に人がやっていることをやりたいと思っている」ということを人に相談したことがある。と言っても、イベントかWSか何かで、何かのトークテーマで話すことになって話したんだよな。

その時に言ってもらったのは、「憧れて人と同じことがしたい」ってのは、
・人が熱中している姿を見て触発された
・何者かになりたいと思っている
このどちらかなのではないか、と分析していただいた。
確かにその通りで、私はこの両方の感覚を持ち合わせている。

ちょっとこの辺り、最近考えていることがあるのでnote書こうかな。


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さて話を戻そう。

その時オススメされたのはなぜだったのか。

私の中で「急ぐ」か「ゆっくりする」かその二項対立的な考え方をしていたからか、

はたまた生き急いでいたように見えたから、少し肩の力を抜くように言われたのか、

はたまたそれ以外に何か思うところがあったのか、

それはその時この本をオススメしてくれた人に聞いてみないとわからないけど。


このタイミングでこの本を買ったのは、単純に積読だったことを思い出したからで、

このタイミングでこの本を読もうと思ったのは、単純に薄くて小さくて持ち運びしやすそうと思ったから。

特に意図せず買って、読んだわけだが、どうも今の私に刺さる刺さる。すごくいいタイミングだったらしい。


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この本は、東京西国分寺にある「クルミドコーヒー」というカフェを立ち上げた店主が自身のキャリアとカフェでの経験を織り交ぜて書かれたもの。

タイトルにもある「ゆっくり、いそぐ」とは、相反するように聞こえることだが、逆説的に正しいことを言っている気もする。

我々にわかりやすい言葉で言い換えると「急がば回れ」だろう。



私が本で一番受け取ったメッセージは「give」

give&takeということは私もあまり好きではなくて、「give&give」で十分だと思っている。なんかこの辺り、なぜ?と聞かれると難しいのだけど、

皆さんは「タッパースパイラル」という現象をご存じだろうか。タッパーは食材を持ち帰ったりするタッパーである。

  1. 田舎では、よく隣の家や、遊びに行った家で食材(それは漬物であったり、作り過ぎたカレーであったり様々だ)をタッパーに入れてもらうことがある。

  2. タッパーをもらって帰って、中身を入れ替えたり、食べたりして、空いたタッパーを返すことになるのだが、お礼を兼ねて別の食材を入れて返しに行ったり、別の何かを持って返しに行ったりするわけだ。

  3. そうすると、返したはずのタッパーにまた何かしらの食材を入れてもらって持って帰ることになるのだ。

  4. 以下2.と3.が繰り返される。

これがタッパースパイラルである。

これはまさにgiveとgiveの関係だろう。むしろgiveしすぎて終わらない。「おせっかい」と言い換えてもいいかもしれない。この辺りに日本人の心があるのではないかと私は思うし、私もこうやって生きていきたい。


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もう1つ、

常に「私」から出発していくこと、それが「私たち」になっていくこと。

これが面白い話だった。

地域や場所に愛着を持って行く過程として、私→私と家族(家)→私と地域というようにどんどん愛着の範囲は広がっていく。

それはその場所や地域に思い出があったり、そこでいい経験をしたからだろう。

どれも「私」発のことであり、「私」が「私たち」になった時、愛着が生まれたといえるのではないだろうか。


私は「自由」(=自らに由る)な人が増えたらいいなと思っている。

一方で、「自由」というのは近代化で「個」という価値観が強くなっていったときに付随して現れた感覚という認識のされ方、まるで「協働」の対義語であるかのようにとらえられがちだった。

私自身、協働というか、「共」は大事にしたかった。「公」ほど大きくないけど、「私」ほど小さくない「共」それはかつて日本にあった「ムラ」呼ばれる単位。それくらいの共同体(=コミュニティ)のようなものは大事にしたいと思うなかで、「自由」が「私」に近い意味でとらえられることに違和感を感じていた。

しかし、この本を読んで、自分から出発して愛着を持つ範囲を広げていくこと、その一助になるものが「共」だったり、その広がったものが「共」だったりすればいいということで、いずれにしろそれは「私」から(=自らに由って)広がっているわけで、ちゃんとつながっているのだという実感が得られた。


考えなおしてみれば、「社会」の定義は「私と誰かがいる場」なのである。

「私から出発すること」と「私のままいること」はイコールではない。


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最後に、私がこの本を読むタイミングが良かったと前半に書いた。

この読書日記を書いている2日後から、私は「副業ゼミ」的なものに参加する。

そこでは「私から始まる小さな商い」を考える。

現在の仕事は任期付きのもので、その後のキャリアを模索する時期だった。

昔はやった「3万円ビジネス」ではないけど、何か少しでもお金になるもの、お金にならなくても私の好きで仕事に出来るものを探している時期だった。

本は「資本主義」と「スローライフ」相反する2つの間くらい、不特定多数と特定少数の間の「特定多数」くらい、そんなことをいくつか提案してもらっていた。

2日後から始まるゼミの参考にさせてもらおうと思う。

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