心のシャッター
初歩的なミスだった。
先日、プライベートでデジタルカメラのカードを入れてくるのを忘れてしまうという出来事があった。
さぁ、撮るぞ!という時に、あるべきはずの場所にカードがささっていない。なぜだろう。そういう時に限って、撮りたい風景が目の前に現れることが多くて、何にも撮れない自分に一抹の不甲斐なさを感じることがある。
プライベートで少し気が緩んでいたということが原因なのだが、ここで何か残せないかと考えた結果、「 心のシャッター 」という技を考えついた。
心のシャッターとは、カメラを持っていない時でも撮影できる空想のカメラのこと。シャッター枚数に制限はないので、いくら撮っても大丈夫。
人と喋っている時。カフェで珈琲を飲んでる時。嫌なことがあって落ち込んでいる時。自分が撮りたいと思った時に写真を撮れるという優れものだ。
と、都合よく便利な心のシャッターなのだが、ぼくの場合は撮りすぎると思い出せなくなるので注意が必要なところ。写真を撮って思い出せないのは、なかなか致命的だ。ただ、記憶に残るまでの光景ではなかったと言うことでもあるのでそこまで気にしていないのだが。
飛べない鳥が飛ぶことを覚えて、自由になったようにぼくは心のシャッターを切ってみた。
目の前にはファインダーを覗いた時と変わらず、美しい世界が広がる。
世界は、あまり変わっていないように見えて、よく見てみると耐えず変わり続けている。
心のシャッターは撮りたい風景を自由に切り取ってくれる。撮りたいものに焦点を合わせて、なんだって撮れる。自由な画角で、自由なアングルで。
シャッタースピード、絞り、ISO感度など、細々とした操作は必要ない。そう考えていると、普段、写真を撮る時、「 ここはこう表現したいから、カメラをこう操作する 」という行為を行なっていることに気づいた。
F2.8で1/500、ISO100。
そういった細々とした数字は、感情の世界から現実の世界にぼくを引き戻そうとする。
それがゆえに「 あっ、すごくいいな 」という感情が少し鈍ってしまうんだろう。写真にそれが現れてしまうんだと思う。
細々している操作と感じるのは、きっとカメラを使いこなせていない証拠だ。心のシャッターのように、もっと自由に撮影できるその先に、感情に近いところに手が届く光景を写すことができると思う。
相棒( カメラ )と心のシャッターが一つになった時、きっと思い描く写真が撮れるはずだろう。