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Switchはインフラであり、アクターである|20250117

こんにちは。

今日は平和な一日だったな、と思っていたら嬉しいニュースが舞い込んできた。

Nintendo Switch の後継機「Nintendo Switch 2」が発表された。
なんとも分かり易いネーミングだ。
まさに次世代機。

見た目もよりクールな方向へと洗練され、デザインも大胆に進化している。
Switchは文字通り、端末のスタイルを”切り替えて”遊べるゲームハードというのが最大のウリだ。
それが2でもしっかり引き継がれ、さらに新しい機能も追加されているっぽい。
これは期待が高まる。
4月2日に情報が公開されるそうなので、気になる人はチェックしよう。



「家庭用ゲーム機」の社会的影響力はかなり大きい。

たとえば、友達が持っているから自分も買わないと一緒に遊べない、というような、ほとんど脅迫観念じみた意識を子どもたちは持つようになり、子どもたちの社会においてゲームはインフラのような役割を担っている。

あるいは、いわゆる”プロゲーマー”と呼ばれる人たちは、その職業自体がゲームによって成立しており、その実践の中でゲーム機本体の価値はただの筐体から生活のための重要な資源へと変容する。

もちろん、「何を、誰と、どこで」プレイするか、というのも大切な要素なので、ゲームソフトの存在も無視できない。
しかしながら、やはりそれを支える本体にこそ、より強い社会的役割が付与されているように感じる。
今日、ゲーム機は家電製品として、ぼくたちの娯楽への欲求を保証するために存在しているのかもしれない。


大学4年でメディアアート論の講義を受けた。
その中でコンピュータゲームに関しても触れられていたが、キモとなるのは〈インタラクティビティ〉があるかどうか、ということだった。
相互行為性、つまり、プレイヤーとゲームの間で応答し、応答される関係が成立すること、それが重要であると。
プレイヤーが一方的に情報を受けるのではなく、メディアを介してゲームにアクセスしていくことで、コンピュータゲームを芸術たらしめる。
これはゲームに限った話ではなく、メディアアートの本質は〈インタラクティビティ〉にあるらしい。

まぁ、たしかにコンピュータゲームに限らず、遊ぶことは基本的には自発的な行為だ。
「えっ、おれ今遊んでいるんだ!」という経験をした人はほとんどいないだろう。
遊びたくて遊んでいるんだから、それが無自覚なのは考えられない。
つまり、娯楽の欲求を消費するとき、基本的には自発的なアクションが求められる。
…でも受動的な「おにごっこ」とか「かくれんぼ」とかやってみたい気がする。
どんなプレイングが想定されるんだろう。
なんか気持ち悪そうで面白いな。


〈インタラクティビティ〉に注目すると、Switchは最高のデザインと言える。
さっきも言ったように、Switchは”切り替える”ことがウリのゲーム機だ。
つまり「何を、誰と、どこで」そして「どうやって」の四軸に合わせてスタイルを変えていける。
またコントローラーの拡張性もかなり高い。
さまざまなアタッチメントを付けたら専用の入力が可能になる。
さらに言えば、コントローラーはシェアリングもできる。
こうした機能をフル活用して、ぼくたちはSwitch遊び、Switch遊んでいるのだ。
ゲームをインフラにして人間関係を築くとき、そのとき確かに、ゲーム機自体は社会を構成するアクターでもある。


結論、何が言いたかったというと、Switch2 めっちゃほしいということ。
でも PS5 もなぁ~…ほしいんだよなぁ~…!
最近ノートパソコン買ったからなぁ…しばらくそういう買い物は無理かな。
数ヶ月後の貯金に期待だ。

サムネ引用元:https://www.nintendo.com/successor/ja-jp/index.html


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