刺激が認知の歪みを治す材料となる
良質な刺激は、自分の目で確かめることだった。
悪質な刺激は、外に出ないで液晶と睨めっこすることだった。
渋谷スクランブル交差点に憧れがあった。
スマホで液晶越しで映し出される交差点は、壮大で綺麗でThe都会だった。行ってみたいと強く思ったが、なかなか行く機会がなく行けなかった。
ある日、渋谷に行く機会があった。
やっと、交差点に行けると思った。
行った。
もちろん、The都会という感じはあったが、想像よりも壮大ではなかったし、綺麗ではなかった。がっかりした。
思ったより普通だった。普通にがっかりした。
そこで思うことがあった。
液晶に映し出されている交差点は、交差点そのものを映し出しているのではなく、その撮影している人の手法や伝えたい部分が無意識上に現れていること。それを無意識上に受けとり、憧れのまま、交差点に向かってしまったからがっかりしてしまった。
でも、がっかりしてよかった。
がっかりという感情が、良質な刺激になっているのだから。
自分の目で確かめずに、液晶の交差点を信じて憧れを持ち続けていたら、がっかりする感情は生まれなかった。
ただ外に出ないで液晶をみて、それが全てだと思い込む。それがマイナスになることではないけど、自分の目で確かめることができる状態なのにしない選択肢をとった場合、それは悪質な刺激になる。
思い込みのまま刺激をもらう。(悪質な刺激)
自分の目で確かめて刺激をもらう。(良質な刺激)
誰もが悪質な刺激から物事を考える。そして、良質な刺激を受けとった時に、その質の差に気付く。
その「差」が、認知の歪みであり、歪みを治すひとつの材料であると考えた。