都会のアスファルト

十勝の田舎町で暮らしている。僕はきのこ農家だ。収穫は毎日。1回の収穫量は少ないが、"ちりつも"で年間の生産量を稼いでいく。故に年末年始も収穫していた。

例年だと、年末年始は薪ストーブを止めてハウス内の気温を下げている。すると、きのこの成長スピードも限りなく低下し、収穫量も抑えることができるのだ。出荷センターが休みになることに合わせた措置だが、僕の年末年始における作業量を減らすことでも効果的であった。

だが、今年は変えてみようと思っていた。薪ストーブは止めない。収穫量も落とさない。出荷先は無いが、僕には乾燥機がある。日々と変わらない年末年始をデザインできそう。とはいえ、忙しくはしない。発生操作の数は減らす。そうすることで、理想のライフワークバランスを構築してみるつもりだった。PCで作りたいものも幾つかある。それも実現できるであろう。

だが、異変はクリスマスのあとにやって来た。微熱だが風邪をひいてしまったのである。でも、市販薬で完治した。しかし、喘息が残ってしまった。けれども年の瀬。かかりつけの病院も閉まっている。どうにもならない。止まらない咳。ひどい寝不足に襲われる。仕事は無理。薪ストーブは止めたのであった。

病院へ行けばすぐに治るだろう。処方箋をもらいに行くようなものである。きっと薬も変わらない。昔、すこしだけ関わったことのある薬だ。ちょっとだけ誇らしい気持ちにもなったりする。プラセボ的にも効くだろう。それが今はできない。

病が恐ろしく思えた。現代人の平均寿命は80歳を超える。けれども、それは科学の進歩によってもたらされたものだ。人が進化して得た能力ではない。仮に、あした世界から医療が無くなれば、僕ら人の寿命は30歳くらいになるだろう。いとも簡単に石器時代へもどってしまう。医療を受けられないということは、それに近しいことと思えた。

人が進化して得た能力ではないこと。それは他にもある。文化的な暮らしもそうであろう。言語も生まれた後に獲得する能力だ。触れる機会が無ければ扱うことはできない。家に住むことも、調理されたものを摂ることも、それに触れる機会がなければ、求めることもない。森で獣的な暮らしをしても、違和感を覚えることはないである。

僕ら人は現代人としての誇りを持っているのかもしれない。便利すぎる暮らしには疑問すら抱えている。恩恵がなければ火すら扱えない可能性があるにも関わらずだ。おそらくは必要なのであろう。結果的にバランスが取れている。論争の絶えない問いだが、今この瞬間のこの状況こそが答えなのだろう。

そう思うと、何気ない暮らしでも尊く思える。それは田舎暮らしの恩恵ではない。都会でアスファルトの上を歩いていても感じられるだろう。今この時代を生きる喜びとは、そういうことなのかもしれない。

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