きのこの奴隷
最初はただの風邪と思った。新型だろうと普遍的なウイルスだからだ。なにをそんなに騒いでいるのだろうと。でも、その認識は変わった。CRSの発症率が非常に高いらしい。だとすれば三つ巴の戦いになると思えた。ウイルスvs人、そこに生物圏の存続力も参戦している。僕はこの戦いを見守った。
もちろん、僕は人を応援する。ウィルスの侵攻と生物圏の防衛策には協力できない。しかし、生物圏の防衛策は強力だった。CRSからのARDS。ウィルスにとっても脅威だろう。宿主となる人が急速に死んでしまうのだから。それではウィルスの侵攻も上手くはいかない。火災から町を救うために、火元の周りの家を破壊することに似ている。現にこの策でウィルスの蔓延が止まった国もあったようだ。犠牲となった人は多かったが、生物圏の存続を担保する多様性の崩壊は免れたのだ。
だが、世界レベルで見れば”人”が勝利を収めたと思える。CRSを止める薬の投与。それによってウィルスは活性するがそれも投薬によって防ぐ。そしてARDSの治療に努める。そこに新型ワクチンの投入だ。生物圏の存続力が発動させたリスクヘッジと思われる妨害的な動きもあったが、最低限の犠牲でウィルスの弱体化という結果を手に入れた。結局、個人の命を尊重する”人”が勝ったわけだ。
この話は陰謀論めいたものでもなければSF的なものでもない。もちろんスピリチュアルなものでもなければ、抽象的な宗教話でもない。科学的な事象に対する考察とはこういうものだ。故に正解は無い。こういうものの見方もあるというもの。視座を変えるということはこういうことだと思っている。
僕はこの手の考察が好きだ。生業としている『きのこの栽培』もそう。きのこの生態をハックして効率よく大量生産している様は、人がきのこを支配しているように見える。だが、視座を変えれば真逆にも見えるのだ。きのこは自身の旨味を利用して、人に自身を増殖させている。そう、僕はきのこの奴隷だ。視座を変えて考察すると、そんな見方も出来てしまうのである。
人はあまりにも自己中心的だ。自分たちを中心に世界が周っていると思ってしまう。けれども実際は、生物圏を存続させるためのひとつの駒に過ぎないのであろう。けれども、そのことは気付きにくい。気付いたところで納得は難しいはず。尊厳がそれを許さないからだ。だがそれも自然淘汰で得られた特徴だろう。本当によくできている。結果的に人にとっては最も理解が難しいロジックになったというわけだ。まさにブラックボックス。開けたい箱の鍵が、その箱の中に入っているようなものだからだ。
宇宙を含めたこの世界が存在している理由を考えると気持ち悪さも覚える。それは子供の頃のことだが、今では幾分に軽減された。人にとってのブラックボックスを開けれたからだ。
結局、生命の存在もそうだろう。かなりの複雑系だが、そこに意味のある理由は無い。自然の摂理があるだけだ。人も生物も無機質なものも、すべては物理法則が造った”揺らぎ”なのであろう。僕の写真の被写体である『理の創痕』とは、それのことである。