進化論を誤解してた

僕は科学が好きだ。とはいえ崇拝はしていない。単にロジックが好きというわけだ。複雑に絡み合った因果関係は、僕の知りたい気持ちを刺激する。今のところ、まあまあ深く破綻をしていないロジックは科学が一番と思っている。故に好きというわけだ。

逆に浅いところで破綻をしているロジックにはがっかりする。だが、それで嫌いになったりはしない。崇拝をしないかわりに、拒絶もしないというわけだ。

科学の中でも進化論はおもしろい。多種多様な生命を生み出し、今この瞬間に複雑な適応力を保持する生命が存在するのは、このシステムのおかげであろう。

とはいえ、この自律システムはどこかにプログラムが置いてあるわけではない。ひとつひとつの小さな欠陥で成り立っている。それは、遺伝子の複製ミス、タンパク質の結合力の弱さ、そしてこのシステムのバグのような仕様がそれと言えるだろう。

自然淘汰は、強者もとい環境に適応した者が生き残るシステムだ。個体を『生か死か』という"ふるい"にかけることで成り立っている。けれども、ひとつだけ強者でも適応者でもない、違った項目で"ふるい"が発動している。それは生きることへの執着心だ。

どんなに強くても、適応力があっても、生きることへの執着心が無ければ淘汰されてしまう。まわりより首の長いキリンも、葉を食べなければ死んでしまうのだ。

そのためか、生きることへの執着心は、持っていることが当たり前と思われる節がある。それが正義であり、否定も許されない。価値観の多様性が叫ばれる昨今だが、これに関しては例外と思える。

そう考えれば『命は尊い』も本質的ではないのだろう。すべての生命で共有している共同幻想なのかもしれない。だが、こちらの方がパワーはある。おかげで世界はこんなにも優しい。自然淘汰の恩恵は、これが一番だと思っている。

だがしかし、デメリットもある。上手く言語化できないが、執着心から生まれる守りたい気持ちからは、自尊心も生まれると思う。それ自体はいいことに思えるが、自尊心を持つあまりに自分たちを過度に特別視してしまう節もある。その視点はひどく自己中心的であろう。

もしそうであれば、僕は進化論を誤解していたことになる。生物No.1決定戦、もしくは最強生物生成システム。それくらいに思っていた。だが違うのかもしれない。そもそも、それで誰が得をしてるのか。大会や賭博、インターネットの各種サービスでも、潤うのは胴元と決まっている。進化論で言えば生命システムそのものだろう。頂点を極めた僕ら"人"が得をしているわけではないのだ。

それでは、生命システムは何を利することで得とするのか。それは 、過去から続く現在を結果として見ることで推測できる。おそらく"継続"だろう。生命の歴史はおよそ35億年と言われている。その間に滅することはなかった。これはすごいことだと思う。

その戦略を考えたとき、いくつかの説が思い浮かぶ。まずは量だ。数の暴力で誰かが生き残るようにする。小規模の危機ならば、100%回避できるだろう。生命の増殖は、そのためにあるのかもしれない。そして、増殖した個体には『寿命』を持たせる。ひとつの個体に任せてはリスクが高い。生と死の循環の中で保たせた方が"継続"は強固になるだろう。

そして個体には個性をも持たせるのだ。画一的な個体を並べるより、全滅のリスクは少ないと思われる。全員が助かる必要はない。誰かが生き残ればいいのだ。そのための個性であり多様性であろう。生命システムは個体に対しては残酷なのである。

例えばプールで10人が溺れているとしよう。そして浮輪は10個ある。だが生命システムがプールに投げ入れる浮輪は、多くても5個だ。ひとつだけかもしれない。代わりに違う物を投げ入れるだろう。ビート版や風船かもしれない。ボーリングの玉やガラス板など、絶対に助からないと思われる物まで投げ入れる。とにかくリスクヘッジ。『浮輪では助からないかもしれない』というリスクにも対応していく。さすれば全員は助からなくとも、誰かは生き残るだろう。個体に対して残酷とはそういうことである。

人の持つ『価値観の多様性』もそうだろう。個性豊かで人らしく在るためのそれではない。単に生命システムが"継続"するためのリスクヘッジなのだ。価値観の違う者同士の争いは、多様性が混ざらないためのものであろう。よくできたシステムだと思う。生命システムに人格は無いと思うが、もしあるとすれば、人同士の争いを見てニンマリとしているだろう。すべては計画通りだからだ。

つまり進化論の自然淘汰は目的の後のものであり副産物なのであろう。一番の目的はリスクヘッジ。キリンは首が届く範囲の葉を食べ尽くしても絶滅はしなかった。巨大隕石が地球を襲っても、恐竜は絶滅したが生命は継続している。淘汰が起こる前の多様な生物個体が存在している状況こそが、生命システムが作りだしたい状況なのであろう。

僕ら生物個体は生命システムの奴隷だ。指示通りに増殖して繁栄し争いを繰り返す。すべては生命システムの"継続"のため。理解しても逃れることは出来ないだろう。争いを無くす術もあるが実行は不可能なのである。そこにも価値観の多様性があるからだ。

すべては推測に過ぎないが、その視点で見ると生命に対する矛盾や違和感は無くなる。そのシンプルなロジックには美しさすら覚える。だが、中指を立てる相手でもあるだろう。それらが人と人とが争うことの本質だとすれば愚かすぎるからだ。

けれどもどうにもならない。ロジックを写真に活用して楽しむくらいが関の山だ。最大限のささやかな抵抗であろう。だが、『僕の思う最高の1枚』を目指すということは、それに中指を立て続ける行為だとも思っている。

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