頭が割れた

医療系の研究施設で働いている。お仕事は楽だが誰にでもできるものではない。作業の9割を占める"お掃除"は誰にでもできるが、維持管理の責任者となると話は変わってくる。微生物統御が求められるからだ。ただただ痃癖に振る舞えばいいわけではない。理論に裏打ちされた作法が必要。結果も数字として表れるのだ。

以前の職場は研修先には最適だった。あらゆる種類の施設が揃っていたからだ。僕のスキルはそこで身についたものである。定期的な消毒作業も然りだ。それは部屋全体を水洗することから始まる。最終的には薬剤を部屋全体に噴霧。これはレアな作業だ。経験していない社員も多い。故に作業は研修を兼ねたものにもなりやすい。

僕の任されている現場でも研修が行われた。名目は期間限定の"補助員"ではあるが、それなりの人数が招集された。ボスは営業部の部長である。集められた手下も社内では地位の高い人。僕が一番の下っ端だった。けれども現場も作業も知り尽くしている。自然と部長の補佐役となるわけだ。

この研修にはもう一つの顔があった。それは裏社員旅行である。裏といっても闇的なものではない。ただの出張だ。だがしかし、研修は1日では足りない。3日間のスケジュールを押さえてある。そしてここは田舎だ。観光地でもある。ビジネスホテルは無い。おのずと宿泊は観光ホテルになってしまう。裏社員旅行とはそういうことだ。

社員旅行には幹事が必要。ここでも僕は部長の補佐役だ。宿泊施設の選定も僕の仕事。予算は会社の宿費規定に基づくが、不足分は部長がポケットマネーで補填してくれるらしい。

昼食の段取りも決めておく。メンバーはおじさん達だ。おしゃれな店を紹介しても満足はしてくれないだろう。人数も考慮しなくてないけない。もちろん予算も。時間にも制限がある。そしてできれば地の物を食べていただきたい。選定は難航したがオールクリアさせた。準備は万端なのである。

事件は夜に起きた。昼は仕事でヘトヘト、夜はホテルで部屋呑み。会社の幹部とキャリア組の集まり。僕も参加しているが場違いの現場組としてだ。貴重な話をたくさん聞けた。聞いてよかったのか疑問が残るほどだ。

夢のような野望。愚痴の域を超えた改革案。クーデターでも起きてしまうのか。一般社員には刺激が強すぎた。僕は無口だ。おそらく口は固いと思われているのだろう。お構いなしに会社の裏話が飛び交った。僕は飲むしかなかったのである。

時間は深夜。明日も作業はある。部屋呑みはお開きとなった。僕は家へと帰る。すぐ近くだからだ。ふらふらだが大丈夫だろう。そう思っていたが崖から落ちてしまった。運悪く岩に頭を打ちつけた。血まみれである。めんどくさいことになってしまった。

とりあえず手の甲で圧迫止血をしつつホテルへと戻った。「救急車呼んでもらえますか?」。運よく玄関前にいた従業員さんに声をかけた。それと部長への連絡もお願いした。深夜に申し訳ないと思ったが緊急事態だ。頼れるものには頼らしてもらう。

病院で額を縫ってもらった。針数はわからない。それくらい大きな傷だった。「もうすこしズレてたら危なかったね」。目が見えなくなっていただろう。さすがに命の危険は無かった。だが不運が重なっていたらわからない。今日で僕が終わっていた可能性もある。そう思わせるには十分な出来事だった。

タクシーで家へと帰った。病院での面倒なことは部長が済ませてくれていた。翌日の仕事はお休み。体調がすぐれないということにしておいてくれた。部長の配慮だ。お世話になりっぱなし。ますます頭が上がらなくなった。

ここでの暮らしは好きだ。永住計画も進めていた。でも本当にそれでいいのだろうか。頭の隅にあったその迷いは、今回の件で先頭に躍り出た。

まだまだ落ち着くには早すぎる。僕の人生には限りがある。迷っている時間すら無いのかもしれない。そんな想いも生まれたのだった。


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