きのこと短縮法
十勝の田舎町で暮らしている。僕はきのこ農家だ。生産量は少ない。その代わり高い品質の生産を目指している。十勝の寒さ、長い腐朽期間、美味さ重視の菌種。それが僕の育てるきのこを支えている。分かる人は分かるだろう。栽培ステータスだけを見れば日本一だと思う。それはそれは美味しいきのこが採れるであろう。だが、採算を取ることは難しい。そんな栽培方法は暴挙に近い。故に存続が難しいのである。
中でも、美味さ重視の菌種を選んだことは、暴挙を通り越してアホ。それは自覚している。僕の知っている範囲の話ではあるが、基本的に菌種は『手間ひま掛けずに多く採れるもの』を選ぶことがスタンダードだからだ。
スタンダードな振舞いは悪いことではない。そもそも『原木栽培』という方法を取り入れてる時点で、平均よりも高い品質とブランドが約束されている。その範囲内で効率化を求めることは賢い選択と言えるだろう。
実は僕の選んだ菌種も、昔は多くの農家さんが栽培するものだった。割と栽培は簡単。形もよく、サイズも大きい。なにより美味い。旨味成分が多いとかなんとか。市場はもちろん、高級店界隈でも評判はよかったらしい。旨味で選ぶなら一択。そう教えてくれる他メーカーの営業さんもいたくらいだ。
だが、ある年を境に『採れない菌種』となってしまった。原因は謎とされている。大変なことになった。この菌種を栽培する農家さんは激減。今では北海道の一部で栽培されるのみとなった。採算が取れない菌種。聞いた話だが、それを活用する者も現れるほどだった。
とはいえ、僕の栽培ハウスではそこそこ多く採れている。理由はある。あきらかに他農家さんとは違う栽培作業を行っているからだ。あえてやらない作業もある。おかげで通年を通して収穫できている。お世辞かもしれないが、他メーカーの営業さんも驚いていた。
僕は僕の育てるきのこが好きだ。美味さもさることながら、そのフォルムもいい。『ザ・キノコ』。そう思わせられる姿だ。食べたら大きくなったり、1UPも出来そう。被写体としても優秀なのである。
それはこの品種を選んだ理由のひとつになっている。もちろん『品質を重視した選択』は建前でなく本音だが、『被写体として優秀』ということも、たしかに悩む僕の背中を押していた。
そんな被写体と出会って分かったことがある。写真にしたとき、『きのこ』と分かる要素は邪魔だった。考えてみれば、他では無意識に排除していたのにだ。
雪原の写真が顕著だろう。雪紋が美しくて撮影した写真は、一見すると何が写っているかわからない。質問されることも多々あった。それは撮影環境がそうさせていた。被写体との距離と角度、それに合わせたレンズ。そこが畑と分かる道路や、背景となる防風林などは画角の外に追いやっていた。自ずと雪原と分かる要素を排除していたのである。
それが他の被写体ではどうだ、無意識に被写体の説明となるものを画角に入れていたかもしれない。例えば山だ。山肌が美しいと感じればそれだけを写せばよかった。それなのに、山と分かるように稜線を入れたり、登山道を入れてしまう。山の説明写真なら合格だが、美を求める自分のための写真なら不合格だろう。僕は『僕が思う最高の1枚』を目指している。そこでは、山と分かるための要素は邪魔なのである。
これは古代エジプト文明で見られる絵画と似ていると思う。その時代、絵画は魔術のように思われていた。『人』が描かれた壁には人を感じる。それを殴るのと、何も描かれていない壁を殴るのでは意味合いも変わってくる。たしかに絵は壁にかけられた魔術のようだ。故に描かれる『人』は『人』として認識できなければ意味はない。故に目や鼻、口、手足、指など、構成パーツのすべては描かれ、その数や比率も正確であった。だが、表現方法が研究されていくと、『描き手から見えないものは描かなくていい』という手法が発見された。知っているものをすべて描かく必要は無い。いわゆる『短縮方』というものだ。僕はそれを取り入れたい。『きのこ』と分かる要素を入れる必要はないのである。
だが、むやみに画角から排除しても駄目なようす。「過度に接写すればいい」ということでもなかった。難しい。どうすれば排除できるのか。試行錯誤が必要だ。トレーニングも然り。そのときに最適な被写体は、大きくて『きのこ』らしいフォルムをしたもの。僕の選択した菌種のきのこが”それ”というわけだ。
「なにかよく分からないけど、なんだかきれいです」。過去、この言葉を写真のコメントとして頂いたことがある。一番うれしかった。すくなからず僕の狙いが当たっていると思えたからだ。この菌種を選んで農園の運営は難しくなったが、後悔は無いのである。