いかにアウトプットをするかを考える

最近は“いかにしてアウトプット”をするかを考えている。
インプットも大切だけど、オレはアウトプットの方を重要視している。だからアウトプットの質やバリエーションを増やしていきたいと考えている。

オレのアウトプットの常套手段は、新しく学んだり、本を読んで知識を手に入れたり、何か気づきを得たらまず真っ先に妻に話すことだ。

これは意図的にやっているわけではなく、話したくてしょうがなくて話している。止めることのできないオレの衝動だ。だからときに妻はオレの話をうるさそうに聞いてくれている。聞いてくれることに感謝。

オレは学んだこと気づいたことを妻に話すことで、頭の中が整理されていくのがわかる。そして言葉にして伝えることで新たな気づきも生まれるし、逆にわかったつもりになっていたがわかっていないところもあることも発見できる。妻に伝えながら学び直しをしている感じだ。
なおかつありがたいことに人に話すことで記憶への定着率もアップすると言われている。人に話すだけでこれだけの効能があるんだから、誰かに話さないともったいない!

ただし使い方を間違えると逆効果にもなる。それはネガティブなことを話したり、人の悪口を言ったりすることだ。それが記憶に定着するからだ。人の悪口を言うとそのイメージが記憶されその人の悪いところしか目につかなくなるし、悪口を言うとストレスホルモンのコルチゾールが放出されるらしい。
アウトプットをすればなんでもいいわけではないと言うことになる。

そしてアウトプットは何も人に話すことだけではない。文章を書くこともアウトプットだ。いまnoteに文章を書いていることもそれにあたる。
なんとなく頭に浮かんだことを書き出す。情報の正確さは正直いってあまり気にしていない。曖昧なところは簡単にネットで調べはするけど、オレは学者でもなければ、これは有料の記事でもないただの日記のようなものだ。そこまでのクオリティを求めもしないし、求められても困る。

アウトプットは自分の学びのため、自己表現のため、自己効力感を味わうための自己満足のためにやっていることが多い、というかそれしかないように思う。それでいいと思う。それでついでに誰かが楽しんでくれれば一石二鳥って感じだ。

アウトプットの質について

アウトプットの質については、自分に正直にあると言うことを大切にしたい。「こんなことを言ったら批判されたり否定されたりするかもしれない」と考えて本当に言いたいこと表現したいことをしないようなことは避けたい。だからオレは勇気を少しだけ出して自分が考えていること、感じていること、信じていることをできる限り正直に話す。
それがむつかしいときは嘘をついたりはせずに、沈黙を選ぶ。嘘も方便というが、できれば嘘をつかずにうまく誤魔化したりのらりくらりとその場をやり過ごしたい。

ということでオレは、アウトプットの質は正直さにあると思っている。
正直であるというゲームみたいなものだ。なかなかスリリングで自分を試されているようなゲームだ。

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