彼女は身体にうんざりし、オレ精神にうんざりする「肉を脱ぐ」を読んでいる
図書館で小説を借りて読むのが最近のマイブーム。
ここ数年、哲学や心理学やビジネス書や自己啓発やエッセイばかり読んでいたが、たまたま図書館で目についた村田沙耶香の「コンビニ人間」を読んでから、立て続けに図書館にある彼女の作品を読みまくり、読む本がなくなったから、いまは直観で適当に選んだ小説を読むことにしている。
そこで先日、著李琴峰「肉を脱ぐ」という本に出会った。
題名は好きだけど、表紙は最悪でいつもなら絶対に手に取ることはないと思う。
でもその日は、図書館の中を物色しまくってもピンとくる本がなくて疲れ切ってしまっていた。しかし「絶対に一冊は小説を借りて帰るぞ!」という、よくわからない気持ちがあって図書館の中をぐるぐると彷徨っていた。
オレはしだいに疲れイライラしはじめ、意識が朦朧とした中で新刊コーナーを最後の頼みにし本を探していて見つけたのが「肉を脱ぐ」だった。
表紙を見たときに「ウゲッ、ダサ」っと思ったけど、少しだけ中身を読んでみることにした。我ながらナイス判断をしたと思う。
というか、判断力の低下が招いたナイス判断というべきかw
そこでなんとなくこれにしようとなって、この本を借りることにした。
まだ8分の1程度しか読んでいないけど、見事にオレ好みの本だった。こんなにクリーンヒットするものかというほどの。
主人公の慶子は駆け出しの小説家で、彼女は身体にうんざりしている。
身体を持つことにうんざりしている。身体を持っている限り、それをケアする負担が生じ、手間暇と費用が発生する。他者の視線に晒され、評価の対象にもなる。脱ぎ捨てられない重さを背負ってしまうこともある。身体が重い。身体の重さが根源だ。
なんとなく共感できるところがある。ただオレがうんざりしているものは“身体”ではなくて思考や感情といった“精神”だ。
人間である以上、身体にも心にも抗うことはできない。
意識がある限り、それらは付きまとってくる。
オレは決定論者で因果論者で、自由意志はないという立場をとっている。そして宇宙的ニヒリストでいづれ人は皆死に、人類は滅び、地球は太陽に呑み込まれ、宇宙は冷え切ってしまい、人は死んだら無になり、命にも人生にも意味はないと信じている。
意識はただの観察者(目撃者・傍観者)でなにも自ら選択をすることはない。思考や感情は意識できるものであり意識ではない。
意識は良い悪い、正しい間違い、好き嫌いなどのジャッジをしない。あるがままを観るだけだ。
だから何かを選ぶということもコントロールするということも意識にはなく、起こることが起こり、あるものがあり、それに気づきつづけるのが意識(観察者)だとオレは認識している。
しかし人間の脳は、心は観察するだけでは満足せず出来事をジャッジし判断し思考する。これを誰も止めることはできない。それは無意識下で自動的におこなわれ、思考や感情は意識が観察できる表へと立ち現れてくる。
人はそれに翻弄される。
オレにはそれが重く、ひたすらに鬱陶しくうんざりしている。
脳がつくりだす心という物語に右往左往することがめんどくさい。これが人間という生きものとして生まれてきた醍醐味なのかもしれないけれど、オレに言わせればただひと言「めんどくさい」に尽きる。
だからオレは意識上に立ち現れるこのめんどくさい思考や感情をどうにかやり過ごしたく、数十年間ずっと考え、学び、実践し、もがきつづけている。
「人生は死ぬまでの暇つぶしだ」というけれど、死ぬまでをどうやってやり過ごすかがオレの人生のテーマと言っていい。
めんどくさくない人生にしたいが、残念ながらオレ自身がめんどくさい人間だから、めんどくさい人間から生み出されるものはめんどくさいものになってしまう。
宮崎駿の口癖は「あぁ、めんどくさい」で「大事なことはめんどくさい」みたいなことを言っていた。
大事なこととかそんなものは人間の脳がつくり出した幻想に過ぎないと思うけれど、そうでも言っていないとやり切れないのだろうか。
宮崎駿は無意識から立ち現れるアニメをとおして表現するという欲求、衝動をめんどくさいと言いながら、それに抗うことができずに作品をつくりつづけている。
オレはなにを生み出すのだろうか。