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月曜日の腐った牛乳 全編【短編小説#1】

1

 僕の机の上にストローの刺さった牛乳パックが置かれていた。

 月曜日の朝、教室の後ろの引き戸を開けると真っ先にそれが目に飛び込んできた。まだ静かな教室で、ストローの刺さった牛乳パックは異様な存在感だった。

 四角いビルから煙突が飛び出ているようなそれから目を離すことができないまま、自分の席にたどり着くと、恐る恐る親指と人差し指で触れた。

 それは生ぬるく、持ち上げ軽く振るうと、牛乳はほとんど入っていた。液体の中に塊のようなものも感じる。

 もう先に教室にいた二人のクラスメイトから見られているのを感じる。

 誰が僕の机の上にこんなものを……。僕は知らないうち誰かに、なにかひどいことをしてしまったのだろうか? その仕返しに、こんないじわるなことをされたのかもしれない。でも、いくら考えても全く思い出せない。
 息が喉につまる。頭がぐるぐるまわる。

 日付を見ると先週の金曜日の牛乳だった。絶対に腐っている。これをこのままゴミ箱に捨てるわけにもいかないし、でも、廊下の手洗い場で腐った牛乳を捨てるのは気持ち悪いし、誰かにそんな姿を見られたら、いじめられっ子みたいでなんだかカッコも悪い。

 なにより、この牛乳パックを僕の机に置いたヤツに、そんなところを見られたくない。そいつはきっと、陰に隠れてニヤつきながら、僕の後ろ姿を見ているに違いない。

 そう考えると、これからこの牛乳パックをどうしていいのかわからず、手から離すことができなくなり、頭が牛乳のように真っ白になった。

 後から考えると、どうしてそんな行動をとったのかわからないけれど、僕は指で挟んだその牛乳パックを、気づくと、教室の前にある先生の机の上に置いていた。

2

 その時、教室から誰かが出て行き、入れ違いにゆいが入ってきた。
「おはよう! 星太しょうたくん! 学佳まなかさん、日直お疲れさま!」
 結はクラス委員長で、先生からの信頼もあつい。僕は結に「おはよう」と言いながら、急いで自分の席に戻った。結は僕の席の右後ろで、一番廊下がわの席だ。

「先生の机のところで何してたの?」
 と結、
「いや、べつになにもないよ」
 と僕。
 結は「そう」と軽く流すと、昨日あったお笑い番組の話をしはじめた。
 僕は、そのことにそれ以上突っ込まれなかったことでの安堵感も手伝い、いつも以上に饒舌になり話は盛り上がった。

「なに朝からにやにやしてんだよ!」
 一成が、僕が座っている椅子の足を軽く蹴り、左隣の席に勢いよく座った。結との会話が止まった。

 僕は、急に恥ずかしくなり前を向いて座り直すと、日直当番の学佳さんが、先生の机に置かれている花瓶を持って、教室から出ていくところだった。
 日直には、先生の机の上にある花瓶の水を毎日換える仕事がある。

 僕は忘れていた朝の出来事に引き戻され、先生の机の上を見ると、僕が置いたはずの牛乳パックがなくなっていた……。

 学佳さんは、水換えの済んだ花瓶を先生の机の端に戻すと、何事もなく自分の席に戻った。

 牛乳パックはどこに行ったんだ? 結との話に夢中になっている間に、いつの間にかクラスには二〇人は来ている。この中に先生の机の上から腐った牛乳パックをどこかに持っていった人がいるのか?

3

 僕は、できるだけ落ち着いた感じで、耳を澄まし、目玉だけを動かしてクラスの様子を窺う。でも、誰も腐った牛乳の話をしている人はいないし、牛乳パックも見当たらなかった。

 そうしているうちに八時二五分になり、登志子先生が教室に入って来た。いつもちょうど二五分に教室に入ってくる。
 僕のお母さんが前、「登志子先生は、お母さんと同じ歳なのよ」と言っていたけれど、眉間のしわが深くお尻もでっぷりとしていて、もっと年寄りに見える。

 登志子先生が一歩、教室に足を踏み入れた瞬間を見計らい、日直当番の学佳さんの声が響く。
「きりーつ! 先生、おはようございます!」
「先生、おはようございます!」
「はーい、みなさん、おはようございまーす」
「ちゃくせーき!」
 日直の号令で、一斉にみんなが動き、同じ言葉を言う。この瞬間、みんなが安っぽいおもちゃみたいで好きだ。

 登志子先生は、教卓の前で立ち止まり出席簿を開き、出欠を取り始めた。
「有吉さん! 井上くん! 植田くん! 江頭さん! ……山口くん! はい、えっと、村松けんくんはちょっとお腹が痛くて、保健室で寝ています。では一時間目は社会でーす!」

 登志子先生はそう言うと、出席簿を教卓の棚にしまい、僕たちは一斉に机の中から教科書やノート、筆箱を取り出す。

 伸びをしながら先生は、自分の机にいき「どっこいしょ」と椅子に座った。そして、引き出しを開けた。
「ぎゃああー!! な、な、なにこれええ!」

 登志子先生は、怪獣のような悲鳴をあげ、椅子ごと後ろにひっくり返った。

「だれ! 先生の机の中に牛乳をぶちまけたのは!」
 教室に登志子先生の銅鑼の音がひびきわたる。

4

 僕は、人の顔がこんなに赤くなるのかと、恐怖を感じた。
 そして、僕の顔からは、血の気が引いていくのを感じた。

 ーーなんで牛乳が登志子先生の引き出しの中に……? 僕はそんなことしてないぞ。
 僕は、いま起こっていることが理解できず、一瞬、吸った息が吐き出せなくなりめまいがした。

 登志子先生は目を閉じ、あらい鼻息を一生懸命静かにさせようとしていた。その姿が興奮した闘牛みたいで、怖かった。

「みなさん静かにして。聞いてください。先生は、こんなひどいいたずらをした人を許したくはありませんが、今日の、帰りの会までに、先生のところまで謝りに来たら、許してあげます。成績表にマイナスもつけません! いいですか。悪いことをしても、反省して、正直になった子を、先生は許します」
 先生はひと呼吸おいて、
「いい、みんな、犯人探しはしないように! いつものように仲良くするのよ!」
 登志子先生はそう言ったけれど、目はまだ、充血していた。

 もしかして、僕がやったのか? 頭の中が混乱してきた……。いや、僕じゃない。僕は牛乳を、先生の机の上に置いたけれど、引き出しの中には入れていない。ましてや牛乳を引き出しの中にぶちまけるなんて……。

5

 教室は、一日中、落ちつかに雰囲気だった。誰かがこの騒ぎを「4年4組牛乳事件」と名付けた。休憩時間は、「4年4組牛乳事件」の話で持ちきりだった。
 犯人を探す探偵ごっこをする人や、犯人をこっそりと褒め称える人、牛乳の腐った臭いに気分を悪くする人まで色々だったが、僕は気が気じゃなく会話に入れなかった。

 事件が動いたのは給食の準備をしているときだった。
 午前中、お腹が痛いと保健室で休んでいた健が戻ってきていた。給食の配膳の列で、僕の前にひっそりと並んでいた。

「なあ、星太。お前は犯人、だれだと思う?」
 後ろから、一成が話しかけてきた。

「ぼ、僕にはわからないよ。それに先生が、犯人探しをしちゃいけないって言ってただろ!」
「お前、今日、学校に来るの早かったよなあ。犯人、お前じゃねえ? あやしいぞ」
 一成は、にやにやしながら僕の肩に手を回した。僕は動揺してしどろもどろになった。

「星太くんじゃないわ!」
 一成の後ろにいた結が、話に割り込んできた。
「星太くんは毎日牛乳を残さず飲んでいたわ! それよりも怪しいのは一成くんよ! 牛乳いつも残して隠してたでしょ! あ……」
 結はいっきに言い終わると、余計なこと言っちゃった! と思ったのか首をすくめ両手で口を押さえた。

6

「お、俺じゃねーよ! 牛乳は残してたけど、それは全部、悠人ゆうとが『実験するからほしい』って言ってきたから、全部、牛乳渡してたから、俺じゃねーよ!」
 一成は、思いもせず犯人候補に挙げられ、あたふたしていた。

「なに騒いでるの、そこ!」
 登志子先生が声を上げ、教室は静まりかえった。

 悠人は、クラスの問題児で、いつも何か変なことをやっては、登志子先生や校長先生に呼び出されて怒られていた。たぶん「4年4組牛乳事件」の犯人は悠人だと、登志子先生やクラスのみんなは思っていたはずだ。僕も悠人だと思っていた。

 僕と一成と結の話はすぐにがクラス中に広まり、悠人は第一容疑者へとなった。もちろん登志子先生の耳にも入った。

「悠人くん、本当はどうなの? 正直に教えて」
 登志子先生は、穏やかな口調と、作りものの微笑みで、詰め寄った。

 悠人は、一成からもらった牛乳をロッカーの中で腐らせる実験はしていたけど、先生の机の引き出しに、牛乳をぶちまけてはいないと言った。けれど、登志子先生は信じようとしなかった。

 悠人が言ったことが、嘘なのか、正直に本当のことを言ったのかは関係なしに、登志子先生は、はじめから犯人は悠人だと決めつけていた。
 登志子先生はいつも自分が正しいと思っているみたいで、クラスのみんなと意見が違うときでも、必ず登志子先生は自分のやり方を採用していた。

7

 登志子先生のいう正直さとか、正しさとか、本当って、何なんだろう……
 結局、登志子先生は、自分の考えていることと違うことをクラスのみんんが言うと、自分を守るように必死になって、僕たちクラスのみんなは間違っている、と言い、僕たちを正そうとする。要するに説教をはじめるのだ。

「おれじゃないって、言ってるじゃん! なんで信じてくれないんだよ!」
 あの悠人が泣き出してしまった。
 悠人はいたずら好きだから、僕が先生の机に置いた牛乳を目ざとく見つけ、忍者のように先生の机に忍び寄り、引き出しに牛乳をこぼすことぐらい簡単にやってのけると考えていた。僕も悠人を疑っていた。悠人の涙の原因は僕にもあると思った。

 さすがに登志子先生も、犯人が悠人ではないと思ったようで、口先だけで悠人に謝ると、考え込んでしまった。
 登志子先生は犯人探しはしないと言っていたけど、今じゃ先生もクラスのみんなも、犯人が誰なのかを必死で見つけ出そうとしているように見える。みんながみんなを疑っていた。

「4年4組牛乳事件」は振り出しに戻ったようにみえた。

「もしかしたら、登志子先生の自作自演じゃない?」
 昼休みは、誰かのひと言から始まった。
 クラスは「登志子先生の自作自演説」でいろめきたった。

8

「やばい! いちばんありえるー!」
「私たちを子どもだって、いつもバカにしてるからねー。自作自演がばれないと思ってるんじゃない?」
「先生、オレたちにはあーしろ、こーしろと言うくせに、自分はぜんぜんできてねーことばかりだしな! 先生なら自作自演ありえる」
「ねー、ところで『登志子先生の自作自演説』って誰が考えついたの? 天才じゃない?」
「確かに天才! でも誰が言い出したんだろ?」
「え? 誰も知らないの?」
 不思議と、「登志子先生の自作自演説」を考えついた人が誰だか、誰も知らなかった。

「星太くんは先生の自作自演説についてどう思う? 私はないと思うなあ」
 結は、学校の図書館で借りてきた小説をぱらぱらと捲りながら聞いてきた。
「僕も先生じゃないと思うよ。だって『誰が、やったの!』って叫んでたときの先生の顔、演技じゃなかったもんね。地獄の本にあった赤鬼より怖かったよ」
 と僕は少しおどけてみせた。

 5時間目がはじまるチャイムが鳴った。登志子先生は両手に原稿用紙を持って教室に入ってきて、持っていた原稿用紙を教卓の上にどすんと置いた。そして、両手を教卓の上につき、僕たちを見下ろし見渡した。

「五時間目の国語の時間は作文です」
 教室がざわついたが、登志子先生は気にせずに話し続けた。
「先生の引き出しの中に牛乳をこぼした人は、なぜそんのことをしたのか、それと反省文を。そのほかのみんなは、今日どんなことを考えていたのか、もし自分がされたらどんな気持ちなのか……まあ、なんでもいいわ。いい、犯人が出てくるまで今日は帰れませんからね!」

「えー!それは困ります! 塾に遅れたらママに怒られます!」
「クラブ活動があるから、先生! 無理でーす!」
 教室から不平不満がこぼれたが、登志子先生は無視し原稿用紙を配り始めた。

「いい、今からの時間は、あなたたちにとってとても大切な時間よ! 五時間目が終わるまでに、しっかりと作文を書きなさい! 一枚じゃ足りない人は前に取りに来なさい」
 登志子先生は机には戻らず、ホワイトボードの前で仁王立ちしたまま僕たちを見張っていた。登志子先生はもっぱら吽業うんぎょうだった。

 僕の机の上には、四〇〇字詰め原稿用紙が一枚置かれている。握りこぶしを太ももの上に置き、原稿用紙をじっとにらみつけ座っている。1行目には「牛乳事件について」と書き、2行目に「星 星太」と名前を書いただけで、あとは一文字も書けていない。
 書かないと怪しまれるけど、なんて書いていいのかわからない。話しても伝わらない先生に、僕が言いたいことが文章で伝わるとは全く思えない。

9

「先生! 書き終わりました!」
 一成が立ち上がって言った。教室はざわめいた。それは原稿用紙が配られてから一〇分も経っていなかった。僕はまだ一行も書けていない。

 登志子先生は一成を一瞥しなにかを言おうとしたけど、ずかずかと一成の席まで行くと原稿用紙を取り上げた。
 僕は二人の様子を見ようとしたけど、目の前の登志子先生の大きなお尻と背中しか見えなかった。

「ぼくは、はんにんを知っていますが、ひみつです」登志子先生は原稿用紙を目の高さにピシッと持ち上げ読み上げた。「これは、なんですか?」登志子先生は一成とクラスのみんなを同時に威嚇した。

「おなかが痛いから、ほけん室に行ってきます!」
 一成は質問に答えず、その場から逃げようとしたけど、登志子先生はすばやく一成の右腕を掴んだ。一成が必死でもがいていると一成の腕が肩からもげた。一成は腕をおいて教室の前の引き戸から勢いよく出て行った。
 登志子先生は、トカゲのしっぽのようにバタバタと暴れている一成の腕を机の上に置くと、教卓に戻った。

「おれもおなかが痛いから、ほけん室に行ってきます!」
 悠人は立ち上がると、運動場側の窓を開け「アディオス」と言って、三階の窓から飛び降りた。

「私もおなかが痛いので、保健室に行ってきます!」
 学佳も三階の窓から飛び降りた。すると教室のみんなが次々と「おなかが痛いから!」と言って運動場側の窓から飛び降りたり、廊下を走って行った。
 気づくと教室には僕と登志子先生と、一成の右腕だけになった。一成の右腕はもう動いていない。

「残り時間十五分ですよ! みなさん、書けていない人は居残りですよ!」
 登志子先生はホワイトボードに寄りかかって気だるそうに言った。

 僕はまだ、作文の題名と自分の名前しか書けていなかった。左隣の一成を見ると原稿用紙の半分以上も書き上げ、頬杖をついて鉛筆をくるくる回していた。右隣の人を見ると二枚目を書いたいた。右後ろ振り向き結を見ると、結は僕に気づき「気持ち悪いから、こっちを見ないでよ」と言いたげな顔で僕を一瞥し原稿用紙に目を落とした。

 僕は結としゃべったことがない。クラスで一番美人で頭が良くて人気者の結が、僕を相手にすることはない。
 僕は今日、机の上にあった牛乳を登志子先生の机の上に置いたのだろうか。あれは僕だったのか。でも、月曜日の腐った牛乳は確かになまぬるかった。

おしまい

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