「コンビニ人間」を読むと癒される。オレは主人公の恵子に共感すると共に憧れる。
どうしてオレは「コンビニ人間」という小説にこれほどまでにハマっているのか。
オレの偏ったこの小説に対する解釈を言語化しつつ、同時に自己探究もしてみようと思う。
主人公の恵子は“コンビニ人間”というプログラムを完成させ、それを自分にインストールし、完全に自動化したロボット(コンビニの歯車)として完璧な存在となっている。(この小説でそんな説明は一切ない。オレの独自の解釈だ。下記につづくものもすべてオレの勝手な解釈に過ぎない)
彼女は自分を“コンビニ人間”として創り上げ、コンビニ店員である限り24時間完璧にプログラムされた存在となる。
彼女は最後に“コンビニ人間”として覚醒する。オレにはそう見えた。人生の意味とか、目的とか、天命とか、使命とかそんなものではなく、彼女は“コンビニ人間”そのものになった。
オレは自分を“何人間”としてプログラムして創り上げることができるのだろうか。この社会を生き抜くために、オレは自分を自動化されたロボットとして完成させたい。
正直言って生身の人間として、この現実社会を生きていくことは、オレにとっては非常にむつかしい。1日をルーチンで埋め尽くし、習慣で埋め尽くし、ルール、パターンで埋め尽くす。思考停止で、無思考で、完璧に設計された反応で埋め尽くしたい。
オレは何人間になるのか、なれるのか、なってしまうのか、まったく想像がつかない。
とにかくオレは思いつくままに、パターンをつくり、ルーチンをつくり、習慣化させている。インストールされたものがすべて習慣化されるわけではない。オレに合うものだけが生き残りオレを生成していく。
つぎはぎだらけの習慣化された行動、思考パターン、感情の反応パターンがどのように相まって、オレという人間を創り上げるのか、自動化されたプログラムが働くのか。
そのときオレは今とは違うどんな人間として生まれ変わっているのか、愉しみでしょうがない。