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存在しない者 其の1【ショートショート#65-1】

 水をかけられて目が覚めた。そのとき私は学校のトイレの個室にいた。上から水が降ってくる。外からはいつものいじめっ子たちの笑い声と罵声が聞こえてきた。私は怒りで叫びたかったが声は出なかった。私の意志とは無関係に身体は両手で頭を抱えて縮こまっていた。口からは小さく「やめて、やめて」と私にしか聞こえないようなボリュームで繰り返していた。私は個室のドアを蹴破り奴らに殴りかかりたかったが、今までそんな行動の気配すら醸し出すことはできなかった。

 私は生まれてこの方、思ったこと考えてことを一度も言ったことがない。頭を掻きたいと思っても、一度も頭を掻いたこともなかったし、ご飯から食べたいと思っても、私は必ずおかずから食べていた。白い靴なんか履きたくないのに白い靴しか持っていなかった。眠たくないのに寝ていた。そのとき私はじっと瞼の裏を眺めるしかなかった。目を閉じているときの方が、暗闇の中で目を開けているよりも賑やかだった。ラメ色にチカチカしたり、突然金粉が散りばめられたり、懐中電灯で顔を照らされたのかと思うような光を見たりした。私はそれを不思議に思ったが、目を開けることはなかった、というかできなかった。その光は瞼の裏に映った映像ではなく、網膜か脳を直接見ているに違いないと感じた。

 そして私もいつの間にか寝ていた。身体の目覚めと私の目覚めは同じではなく、今日のように私が目覚めると身体は大概一日をはじめていた。私を起こしてくれるものはいなかった。私が何か話している途中で目が覚めたり、風呂に入っているときに目が覚めたりしていた。私が何時間寝たのか、私にはまったくつかめていない。八時間なのか、二〇時間なのか、二週間なのか、感覚では判断できなかった。私の目がスマホの画面を見たときにようやく自分がどれだけ寝ていたのかを理解できた。

つづく

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