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海の見える場所で、桜を植えたら

3年と8ヶ月前。
わたしは当時勤めていた会社での募集を受け、とある活動に参加した。
プロジェクトの名前は「桜ライン311」。場所は、岩手県の陸前高田市。

陸前高田は2011年の東日本大震災で、津波による甚大な被害を受けた街のひとつ。
この街の若手メンバーが始めたのが、「津波の最終到達ラインに沿って桜の苗木を植える」というプロジェクトだ。

もし万が一、また3・11と同じくらいの規模で地震と津波が発生したら、皆が桜並木を避難の目印にして走れるように。今度は、大勢の人が亡くなったり、生き残って悲しんだりしないように。
そういう目的で、震災直後から桜の植樹活動をしている団体だ。

私は前職の縁で、いちボランティアとして参加させていただいた。
その時のことを、何度も思い返し、また参加できたらと思っていた。
植えた桜も気になったが、その後のプロジェクトの進み方のほうが気がかりだった。その時でまだ全体計画の1割も進捗していなかったと記憶している。
地味な活動だけど、きちんと桜を残し情報が行き渡るようにすれば、絶対に救われる命があるはず。この活動には当初から大きな意義を感じていたし、できるかぎり役に立ちたいと思っていた。
だから決心を固め、宿と交通手段を確保して、仕事も休みを入れた。そうしてわたしが参加した植樹会は、第35回だったらしい。(例年、春と秋の年2回開催されている)

前日の金曜日。お昼に家を出て、新幹線・電車・バスを乗り継いで現地へ。前回は会社の人と乗合の車で行ったので、きちんと乗り継ぎできなかったらどうしよう、と不安を感じたりする。
気仙沼から大船渡へ向かうルートは昔はJRが走っていたようだけど、震災の影響か路線が復旧しておらず、代わりにBRTというバスが走っている。
電車が1車線通れるくらいの細いトンネルを抜けると、窓の外には雪がちらついていた。どうやらその日が初雪だったらしい。

真っ暗な夜、何もない市内のバス停に着く。
冷蔵庫の中みたいな寒さ。宿までは街灯もほとんどなく、仕事帰りと思しき軽自動車がたまに勢いよく走り抜けていく。

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宿について、おいしいご飯をいただき、眠りにつく。
翌朝は暖房で部屋が乾燥していて、起きたら喉が少し痛かった。窓を開けたら雪がほんの少し積もっていて、けれど朝日で溶けていくところだった。

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「私たちは、悔しいんです」
代表の挨拶はその一言から始まる。過去にも3・11と同じ規模の津波が発生していたという事実、そのことがきちんと知らされていれば、身近で亡くなる方を少しでも減らせたのではないかという後悔。淡々とした語り口だけど、静かで強烈な思いが冷たい体育館の床をびりびりと伝ってくるようだった。

わたしは震災で何も失っていない。
けれども、当時家のテレビで見た津波の映像には、当時も今も気管が圧迫されるような苦しさを覚える。

本当に大変な思いで今を生きている人がまだたくさんいるのだと思う。
どうしたってわたしは津波の当事者にはなれない。けれど、じゃまにならない程度に力になれたら…桜ラインの活動は、そういうわたしの身勝手で他人事だろ、と思われても仕方ない気持ちを、拾ってくれている。と思う。

苗の植え方のレクチャーを受けたあと、割り振られたチームで現場に向かう。
今回ご一緒したのは、札幌から来たというボランティア団体の方々。
おじいちゃんが多くて、集合場所の体育館ではヒーターの周りで和やかに談笑しているような面々だった。東京から一人で参加したわたしを気遣ってくださり、ありがたかった。

植樹場所は、すでに土地のかさ上げ工事が完了した市街地(になる予定の空き地)の一画だった。後ろには小高い山がある。
海が見えるかと思ったけど、今は高い高い防潮堤が建てられており、直接は見えなかった。とはいえ、(前回もそうだったけど)海からこんなに遠いところまで波がきたのか…と考えて言葉を失ってしまう。
「植樹地の中には、ご遺体が上がった場所もあります」という団体の方の言葉が脳裏に蘇る。
本当に、ここまで波が来たんだ。

さらに、ここはかさ上げ地なので、家や工場や何もかもが破壊されたあと、全部撤去して、外から持ってきた土を少しずつ重ねて、ならしてできた土地だ。今では防潮堤の近くまで平らな大地が広がっているように見える。3年前は、まだ局所的にかさ上げされた台形の土地が続いていただけだった。ここまで来るのに、どれだけの人が昼夜働いたのだろう。

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植樹の手順としては、まず桜を植える場所に水平な穴を掘り、土と肥料と水を入れて土台を作る。根巻きがついたままの苗木を入れ、土2種類と水を交互に入れながら穴を埋めていく。
次に、鹿などの動物がまだ柔らかい樹皮を食い荒らさないよう、幹に硬いネットを巻きつける。
最後に樹が倒れないよう、3本の支柱を立てる。支柱に、桜ラインを示すピンクリボンを巻きつけて終わり。

札幌のおじいちゃんたちは、普段は農業をやっているらしい。
道具の使い方、穴の掘り方、何を取ってもその動作には無駄がなく、日常がいかに人を育てるかを思い知る。
生業の農業のみならず、ボランティア活動に何度も参加してきたという。今日は植樹が終わったら少し車を走らせて温泉旅館に泊まるとも。
変な気負いはなく、自分にできる範囲で一番他人の力になれる方法を考えた結果だと思う。快晴だったが白い息が出るほど寒い中で、彼らが滝のような汗を流しながらシャベルを振っていたことをわたしはたぶん忘れられない。

一方のわたしはこの日、初めてツルハシを触った。ほとんど穴掘りの役にはたっていなかったので、もっぱら土や水をかけたり、使い終わった道具を整理したり、土から余分な石ころを取り除いたりしていた。

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チームで植えた桜は3本。オオヤマザクラ2本と、枝垂れ桜1本。
どれも3mくらいの大きな、それでいて若い樹だ。
若い桜の幹は、どれもつやつやとした光沢があり、わたしはそれがとても好きだなと思う。

どうか、数十年後に立派な桜並木の一部になってくれますように。
震災で大事な人をなくした人たちが、一日も早く元気になってくれますように。
祈るという行為は久しぶりだった。
その場所を、GoogleMapに標した。また、数年後に正しく戻ってこられるように。

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体育館に戻って、地元の少林寺拳法部の方々が作ってくれた豚汁を食べた。前回の植樹会でもこれが本当においしかったので楽しみにしていたが、3年前とかわらない、おいしさとあたたかさだった。

わたしは当日中に東京に戻る予定だったから、ご一緒したメンバーと連絡先を交換したりお礼を言ったりしたあとに別れた。おじいちゃんたちからは名刺をいただいた。

気仙沼行きのバス停に向かう坂道の途中で、遠くに海が見えた。

晴れた日の太平洋はちらちらと輝いていて、どこまでも静かに広がっているようだった。8年前に多くの人をさらっていったとは思えないほど、静かな眺めだった。
養殖のための網のようなものも見え、本当に少しずつではあっても、ここの人たちが日常を取り戻す道を一歩ずつ登っているような気がした。

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ひとりが一回の活動でできることは本当に小さいが、何よりも続けることが大事だと改めて思う。わたしは、陸前高田の人とできるかぎり歩調を合わせて、応援を続けたい。


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漆畑美佳
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