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乳がんサバイバー 第25話 元乳がん患者からサバイバーに。ウイッグを外す。


 手術、抗がん剤、放射線治療といわゆる標準治療がやっと終わった。3月にハワイに来て7か月以上たっていた。

ちょうど良いタイミングでピンクリボンのレースフォーキュアというイベントがあった。ピンクリボンとは(乳がん早期発見して死亡率を減らそう)という運動だ。

乳がん撲滅のための募金集めのために行われるランニングとウォーキングレースだ。その1マイル(1.6キロ)ウオーキングに参加した。

5時に起き、ワイキキの会場へ。参加費を払いTシャツと帽子を受け取る。Tシャツは乳がん患者はピンク色。サポートする人は白いシャツだ。 白いシャツの人たちは、ゼッケンに様々な思いが書いてある。 

(母のために)(大事な友だちのために)たくさんのメッセージ。読んでいるうちに目頭が熱くなる。

驚いたことにものすごい人数のピンクのシャツの女性達がいた。これだけの人が皆、乳がんと闘ったのだ。もちろんレースに参加していない人たちも何倍もいる。

若い人、年配の人。髪が長い人、短い人。え?あの人もという健康そうな人がピンクのシャツを着ていた。

そしてピンクシャツの何倍もの白いシャツの人達。これだけの人が気にかけサポートしてくれている。その圧倒的な人数を見て感動した。

こんなにも沢山の人。私はちっとも1人じゃなかった。そしてピンクのシャツを着て歩く私はものすごく特別な気持ちがした。両側には、もちろん白いシャツの夫と息子が一緒に歩いてくれている。

この日、私ははじめて(元乳がん患者)から(サバイバー)になった。
 
たった1マイルだけど足がまだ痛かったので、ゆっくりゆっくり歩いた。ゴールをして、首にレイをかけてもらい、サバイバー全員で写真を撮った。

はじめてがんと戦った自分を誇りに思えることが出来た瞬間だった。

泣いてばかり転んでばかりいた私が、はじめて立ち上がって歩くことが出来たのだ。それは夫と息子のサポート無しでは出来ないことだったけれど、気持ちはすっと前向きになっていた。

こうやって歩いて行こう、ずっと。この瞬間にそう思った。


* * *


 11月になり、家が建ったので引っ越しをする。トラックを借りてタウンハウスからの荷物を運びいれた。 翌日は今まで港に保留状態だったコンテーナーの荷物がやっときた。ものすごい量の荷物だ。3月から8ヶ月ぶりに自分の持ち物と対面した。箱の外側に書いてある字を読みながら、キッチンや2階に箱を運ぶ。自分の(もの)があるというのはこんなにうれしいのかと再確認した。息子も大喜びだった。 

洋服の箱を開けてみたら冬物がぎっしりでがっかりした。ここではいらないものだ。かなり処分しないとクローゼットにも入りきらないと思った。必要な物を買ったり、整理したり忙しいけれど人間らしい生活はすごく嬉しかった。

しばらく忙しい日々が続いた。 新しい家でクリスマスパーティーもした。楽しいクリスマスも過ごせた。お正月の食品を日本食品店に買い出しにも行った。大晦日には夫ママがカリフォルニアからまた来て、ハワイの風習の花火を一緒にする。大晦日にはどこの家でも花火をして、もうすごく騒がしい年末年始を迎えるのだった。

 数カ月前の抗がん剤治療の頃と比べると夢の様な日々。 ハワイの生活を楽しみながら再建手術を出来る日を待っていた。

放射線の痕もだいぶ痛くなくなってきたので、海にも入ることが出来た。 ハワイの海の浅瀬に横たわると傷が癒えてくる気がした。 

この頃はまだ髪がすごく短くウイッグをかぶっていた。5センチ位だ。

レースフォーキュアで気持ちの変わった私はウイッグをとろうと決意した。
1月の終わり、キャリ-の家に行った時にはじめてウイッグを外して行った。まだベリーショートよりも短い髪の毛だったけれど、キャリーも「じゃあ私もとる!」とウイッグを外した。
 
その髪型のまま学校にも行った。学校のボランティアを始めていたのだった。まだ、初めて見る人はぎょっとするような、ものすごい短さなのだけど、優しい先生は理由も聞かずに息子の前で

「その髪型とっても素敵ね」と言ってくれた。こういう優しさが心にしみる。

抗癌剤と放射線で歯がボロボロになっていたので、上の前歯6本ともクラウンにした。これはすごく嬉しかった。

ウイッグを取ったら、ハワイの風を感じられる。歯も直したので笑うことができる。これで胸を再建できたらどれほど嬉しいだろうと思った。
だが現実はなかなか厳しかったのだった。

3月になった。 

1年前の3日にハワイに来た。 息子は9歳になった。
前半は寝てばかりで泣いてばかりの日々だったが、穏やかなハワイの気候に癒やされながら1年間無事に過ごすことが出来た。

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