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なぜ「最近の若者は…」と言われるの?マナーについて

マナーが話題になるとき、いつものきまり文句は「最近の礼儀作法は崩れた」。

どうもタムです。岩波書店から出版されている熊倉功夫さん著『文化としてのマナー』という本が大変面白いので紹介しようと思います。

はじめに

この本は、図書館で出合った本で、食事のマナーを指導するにあたって、そもそもマナーとは…と疑問に思っていた時だった。本棚にあるこの本を手に取って、本を開いた2秒後にはアマゾンで購入していました。とにかく、1ページ目からめちゃくちゃ面白い。

マナーが話題になるとき、いつものきまり文句は「最近の礼儀作法は崩れた」。この嘆きは今にはじまったことではない。(中略)昔のほうがしつけがしっかりしていたというのは幻想であるという。階層の差や地域差が大きくて、非常にきびしいしつけを受けていた人びともいたけれど、大半の庶民の家では「〈労働のしつけ〉を除けば、子供のしつけは「ゆるゆる」の状態であった」。その通りであろう。私も同感する。昔のほうがマナーがしっかりしていたとは必ずしもいえない。
 にもかかわらず、昔はしっかりしていた、今の若い者は、という嘆きはなぜくりかえされるのだろうか。
 マナーがいつも年寄りには心得があって若者には心得がないということは、そもそもマナーが社会の権力を握っている老人の側に所属するということを意味している。マナーは社会関係を円滑に作動させるためのルールであり、社会の秩序を維持するためにシステムである。つまり社会秩序を維持を求めるのは、その社会を支配する側であって、社会的抑圧を受ける側の論理ではない。

読んだ瞬間に、ビビビッと衝撃が走り。「マナーが社会の権力を握っている老人の側に所属する」という側面を知らずしてマナーの方法論ばかりを唱えていたとしたのなら、それは「教育的」ではなかったのかもしれないと思ってしまった。


 いやいやしかし、それでもマナーは大切であることは間違いない。「マナーは社会関係を円滑に作動させるためのルールであり、社会の秩序を維持するためにシステムである。」と書かれている。本書でも重ねて、以下のようにつづられている。

地域によって実態はさまざまであり、しかも時代とともに変化していくマナーである。しかもその存在理由が説明できないようなあいまいきわまりないものであるとしても、われわれはマナーをもたずに生活するわけにはいかない。また、マナーを拒否することもできない。それが生活のルールの大きな部分を占めるからである。

 社会の秩序はマナーによって保たれているという大前提はあるものの、マナーが統制的な役割を持っているがために、教育するとなると頭に引っかかりのようなものが残る。
 では、視点を変えて、マナーの原点はいったい何で、どのように発展してきたのかその背景からみていきたい。

マナーの原点とは:動物的行動の拒否

 原点を探れば探るほど、普遍的な行動につながる。マナーに近いあいさつの行動をみると、人類のどの種もほほえみ、まゆを上げて、口角をあげるという共通したパターンがある。逆に拒否するパターンは、子どもたちが相手を拒否するときに行われる口を結んで「いーだ」と口を結ぶしぐさがあげられる。

 しかし、ここで注意しなければいけないのは、これら行為は他の動物にも共通するパターンであるということである。サルやキツネなどにもみられる行為だったりする。そのため、人の原点を深堀すればするほど、その一部が獣と重なり、かえって野蛮となり、嫌われる行為につながる。

 そして、ここが人間のマナーの出発点となった。マナーは生まれ持った人類としての自由な行動(動物と似ている行動)を拒否し、さらに行動に”型”を付けることによって、”自由な行動”を抑えていった。
 それは”秩序を守る”ためにもともと種として備わっている本能的なしぐさ(攻撃的で、非人道的なものも)を拒否することで、理性的で人間的な「マナー」としての”型”を作っていったように思う。

日本のマナー:型としての美

日本においては、欧米と比べ、自然なふるまいを拒否する方向で発達していった。確かに、例えば目上の人に手を振ったり、友達や家族とハグをするという表現は、忌み嫌われ、”型”として、お辞儀や会釈などのコミュニケーションが行われてきたと考えれば、納得がいく。

そして”型”は次第に洗練され、美しさを持ち、抹茶の入れ方や飲み方にもみられるように日本人のアイデンティティとなっていった。

武道や茶道、華道には様々な”型”、作法がある。体で作法を覚えることによって、ふるまいの美しさや精神的な強さに繋がっていくことを、昔の人は体感として知りえていた。そして何より、おもてなしといった言葉にあるように、洗練されると作法に”心”が宿る。

しかし、洗練されるためには時間がかかる。修行の時間は若者にとっては理不尽だと思うかもしれない。何のために行っているのか分からないことが多いにあるからだ。昔の人は、その行いが何の成果を出さなくとも、その修行に耐えていたのだと思うが、現代ではそうはいかない。

近代の変化:合理化という指標

近代化と同じくして西洋から「合理性」という概念が入ってきた。人権や科学といった合理性はたくさんの不合理を解消し、人々を苦痛から解放した。部活動中に水を飲んではいけないことや、新入社員は上司のお茶を入れることなどがあげられる。

現在も女性がハイヒールを履かなければならないことやと、メイクを必ず行うといったマナーについて様々な議論が起こっている。

不必要なマナーは速攻、見直すべきであるが、それが進まないのは、冒頭にもあったように「マナーが社会の権力を握っている老人の側に所属する」からだ。彼らは伝統を重んじる。伝統と聞けば素晴らしいものだが、時代によって価値観が変化するため、適正化していかないといけないのだが、理解を得るのが難しいと感じることも多々あり、若者や社会的に管理下に置かれるものには葛藤が生まれるだろう。

しかし、これは歴史上どの時代も同じことで、残念だが変わってはいかないのかもしれない。


母親の苦悩:背負いきれぬ期待

そもそも、マナーが話題となり議論されだしたのは、マナーがおろそかになったからではない。それは、マナーに対して不安と、しつけへの熱心さが人々の心をとらえたからであると、広田照幸氏の言葉を引用している。

 皮肉なことだが、しつけへの熱心さこそが不安を生み出しているのではないかということである。
 かつての村の子育てのように、自然な成長にまかせた放任と、周囲の人的ネットワークへしつけを依存した状況のもとでは、親たちはわが子のしつけに不安を抱くことは少なかった。むしろ、家族‐親こそがしつけの中心的な担い手であるという意識が強くなり、「完璧な母親」を演じようとする時代になったからこそ、演じきれない自分や「完璧な子供」になってくれないわが子に関して不安が生まれてきたのである。

それは、60年前にさかのぼるが『日常礼法の心得』という本が大ベストセラーになった。その理由は、そこに「完璧な母親」像が語られ、完璧な母親になるための礼法が説かれていたからであると筆者は考察している。当時の母もまた、悩み苦労していたのだ。

そのような背景があることも、頭に入れておきたい事実である。

これからのマナー

日本のマナーを支えてきたものが無くなりつつある現代に、私たちはマナーにどのように対処していけばよいのか。残念ながら、筆者は自分で自分のマナーを選択していく他はないという。自己流ともなるとそれは危険だと思うかもしれないが、悲観することは無いと述べている。

コロナウイルスが席巻するこの孤立した社会で、人は誰かと共に生きる方が心地よいと考え、感じた人が多いのではないだろうか。

共に生きるためには、共に生きる妨げとなる条件を排除するのがルールでありマナーとなろう。個人があくまで自己流のマナーをつくっても、自分のここちよさを追求すればするほど、それは共に生きている人びととの共通のマナーに近づかざるを得ない。

 多様な価値観を受け入れようとしている現代で、マナーが悪化することは考えにくい。まずはたくさんのマナーがあると知り、触れることが大切になってくる。選択肢は多いほうが良い。その中から、現代の価値観にあわせ、それぞれの共同体の中で自分のマナーを選択していくことが大切なのだと思う。

 さて、私たちにできることは、私たち自身が正しいマナーを学び、子どもたちに選択肢として教え与えることと、自身が正しいと思うマナーを態度として示すことにあるだろう。

 そして、強引ではあるかもしれないが、口の中に食べ物を入れてしゃべらないことや、食事中にむやみに立ち歩かないことなど、「合理的で普遍的な最低限のマナーに関して」はしつけとして教えていく必要もあるように思う。


最後に

もう一度、マナーの原点に戻り、本書の中で、西山松之助氏が『日本を知る辞典』「交際と礼儀」で述べられ引用されていた言葉で締めくくりたい。

社会の秩序を保ち、より良き社会生活を営むためのルールや規範になるものが礼法であろう。礼法をこのように規定すると、人間社会には、どんなところにも礼法は必ず存在する。しかし、その社会は、それぞれの民族や地域や時代によって、大小さまざまな相違があるので、こうしたルールや規範、つまり礼法も、それぞれ千差万別だといえよう。

自分の中にあるマナーに固執せず、他者をとの共存へ心を置きマナーを選択していきたいと思う。

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