「ゆたかさ」と「ゆたかみ」について考える
数年前に親友との会話の中で出てきて以来、ずっと自分のテーマの1つとして残っている言葉がある、それが「ゆたかみ」だ。
「ありがたさ」と「ありがたみ」
私達は「ありがたさ」と「ありがたみ」についてはよく話題にするけれど、「ゆたかさ」に対する「ゆたかみ」についてはあまり話さない。
というより、多くの人が「ゆたかみ」という言葉に対して若干の聞き慣れなさを感じるかもしれないし、そんな言葉があるのかな?とい疑問が浮かぶかもしれない、でも意味はなんとなく分かる、そんな不思議な言葉だろう。
「ありがたさ」という言葉で思い浮かぶのは、例えば、親のありがたさや、故郷のありがたさだろうか。これは、感謝や尊敬の気持ちを込めた一般的な概念だと言える。
一方、「ありがたみ」というと、それは個人的な体験や感情が深く関わるニュアンスがある。親や故郷に対する感謝の気持ちが、より自分自身の実感として噛み締められる感覚だ。
「さ」と「み」
この「さ」と「み」の違いを説明するのは意外と難しいけれど、感覚としては「さ」がより客観的で一般化されたもの、「み」は主観的で、実際に自分が感じ取って味わうようなものだろうか。
こう考えると「み」には「味」のニュアンスが含まれている気がする。
さて、あらためて「ゆたかさ」について考えるとどうだろう?
「ゆたかさ」と言われて思い浮かぶものは色々あるだろうが、経済的に不自由がなく、清潔で、困りごとがない、みたいな感じだろうか。あるいは自然のゆたかさを思い浮かべる人もいるかもしれない。
「ゆたか」という概念自体が人によって異なるという視点もあるが、ここで言いたいことは、「さ」で語るときにはどうしても一般化されたイメージに偏ってしまうことがある、ということだ。
問題は「ゆたかみ」だ。
わたしたちは本当に「ゆたか」を味わっているだろうか?
「ありがたみ」はよく感じるが、「当たり前のゆたか」を味わうことがどれほどあるだろうか。
「み」が「味」だとすると、重要なのは「味わう」ことだ。
「ゆたか」を「味わう」ために必要なこと
刺激の強いジャンクフードを食べ続けると味蕾細胞が鈍くなるように、もし私達が無意識に「ゆたかさ」を追い求め、享受し続けると、「ゆたかみ」を感じ取る感性が鈍くなるのではないか、そんな危機感も覚える。
ちなみに「うまみを感じるトレーニング」として、昆布水を飲んでシンプルなうまみを味わってみたり、速度を落としてゆっくり感で食べてみたり、感じた味を言葉にするなど様々な物があって、味覚は鍛えることができるらしい。
「やりかた」ではなく「目的」から考える
こう考え始めると、私たちは今こそ「ゆたか」を感じるための感性を磨き続ける必要がある!という思考になるし、次いで「ゆたかみ」を感じるために、私たちは何をするといいのだろうか?というやり方の話題になるし、なんとなく味覚と同じく「◯◯がない状態を経験してみよう!(例えば”デジタルデトックス”とか”田舎暮らし”とか)」ということになる気がするが、なんだかそれは違う気がする。
そこで今回、私が提案したいのはやり方を考える前に、まず目的となる「ゆたかみ」という新しい概念について自分なりに考えてみることだ。
そうすることが結果、自分の身の回りにある「ゆたか」に目を向けるきっかけになると思う。
まだまだ私の中でも「ゆたかみとはどういうものか?」という答えは出し切れていない。
が、もしここまで読んで何かを感じていただけたら、一緒に「ゆたかみ」から考えはじめてくれるといいな、と思っていたりします。
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