「ぬりえモード」と「ラクガキモード」
小さい子どものころ、最初に手に取るのは白い紙とペン。
思いのまま、好きなものを自由に描く。
何も考えず、ただペンが動くままに。これがラクガキのはじまり。
少し大きくなると、今度はぬりえを手に入れる。
ヒーローやプリンセスの描かれた線画。
最初はそこにも自由に色をつけていく。はみ出しても、どんな色でもいい。
だけど、やがて「お手本と同じ」にしたくなる。
はみ出さないように気をつけながら、丁寧に色を塗る。
きれいに塗れた時、うれしい。完成して、楽しい。
ぬりえは素晴らしいものです。筆記具を使うことで手先が器用になり、色彩感覚も育まれます。さらに、集中力が身につき、達成感も味わえます。
こどもの成長において、欠かせないものの一つだと言えるでしょう。
父に言われた「こっちのほうが楽しかったやろ?」
ここで少し私の思い出話になりますが、中学生の頃、図工の授業で一版多色刷りの版画を作ったことがあります。一版多色刷りは一枚の版木の上にぬりえのように絵の具を置いて刷るという技法のことです。
課題はリンゴやボトルなどを並べた静物画。刷り上がった1枚目は、特に工夫もなく、周りと大差のない普通の作品でした。
周りを見渡しても、少し形や配置が違うくらいで、皆同じような作品が並んでいました。
早々に課題の制作を終え、暇を持て余していた私は、こっそり2枚目を作り始めました。
リンゴをミラーボールのようにカラフルに塗り分けて、それが映えるように空をあえて不穏な暗い紫にして、テーブルはあえて黄色に、さらには版にない小人を足して、なんとも不思議な一枚が出来上がりました。
クラスメートからは「なにそれ(笑)」と笑われ、美術教師も普通の1枚目を受け取り、30枚の代わり映えしない作品が教室の後ろに掲示されました。
しかしその日の夜、持ち帰った2枚目を見た父親がこう言ったのです。
「こっちの方が絶対ええやんか!こっちの方が楽しかったやろ?」と。
この出来事は今でも忘れられません。
「他の人と違う色を使ってる」とか「ちゃんと評価されなきゃ」という気持ちが消え、「楽しい!」で作った作品こそ、見る人もいいって感じるんだ!という感覚が生まれた瞬間でした。
(ちなみにこの時に、早めに抑えの案を作って文句を言わせないようにしてから遊ぶ、という処世術も手に入れました笑)
無意識に合わせてしまう「ぬりえモード」
さて、何が言いたいかというと、ぬりえが私たちに「お手本通りにしなければならない」「はみ出してはいけない」といった無意識のルールを刷り込んでしまうことがあるということです。
もちろん、ルールや決まりごとは大切ですし、ぬりえを否定しているわけではありません。
しかし、大人になってからも「こうするべき」「これは当たり前」といった枠に、無意識のうちにとらわれていることはないでしょうか?
特に、キャリアや生き方において、過去の当たり前や他人の言ったことに合わせてしまう状態を、私は「ぬりえモード」と名付けてみました。
(繰り返しますが、ぬりえを悪者にしたいわけではありません)
ただ、「ぬりえモード」にもいい部分があります。
それは決まりや当たり前を、無意識にでも感じられているということです。
楽しい、好きだの「ラクガキモード」
ぬりえモードでは、確かに器用さや対応力が養われ、達成感も得られるでしょう。私自身、そういう選択をしてきたことも多々あります。
しかし、時に自分の本当の気持ちと離れてしまうことがあるかもしれません。
そんな時は、自分が楽しい、自分が好きだから、で決めて動く「ラクガキモード」を思い出してみてください。
決まりや当たり前に沿うことだけが正解ではないですし、むしろぬりえの線を使ったラクガキが面白くなるように、「ぬりえモード」で感じられる決まりや当たり前があるから、新しい価値が生まれることだってあるはずですから。