こうあるべき呪縛とただの私、の本音

小学生最後の夏がくる。

息子にとっては勝負の夏。
県代表を勝ち取り、近隣3県の選抜を経て全国に挑む。
国内で勝負するだけの力をつけられたということにまず、彼を尊敬する。
テニスをずっと続けている長男。
それしかやりたくないと、学校に行き渋る長男がうちにはいます。


好きなことがあっていいね。

と、周りから声をかけられると頷く自分とうまく言葉が出てこない自分がずっと両方いた。
そのくらい家族全体の生活は変わってしまったし、夫は自分の時間なんてほとんどないと思う。もう何年も。
毎日目を輝かせて練習に行く漫画のような世界ではないし、凹凸の激しい我が子。

6年生にもなるとだんだんと進路も現実味を帯びてくるのか、
テニスに付き合う親御さんのモチベーションはどこにあるの?と聞かれたり
そんなこと一生懸命やっても食べていけないよという雰囲気が流れてくるようになった。

そういう質問をされると

こちら(親)のモチベーションや理想図で子供を導いていける素地があるのだなぁと

ちょっといいなぁ、と思ったりするけれど
それはそれですごく悩んだり迷ったりするのだろうな。

こちらの意向なんて関係なく突き進む子供をずっと追いかけているだけなので言い方は良くないかもしれないけれど、「付き合うしかない」という感じで今まで来ている。

子供の付き添いで土日が動けなくなり、大好きな仕事や趣味に影響するのが辛いとクラブチーム入りに悩むママの本音を聞いたことは今までで一度だけ。

子供のやりたいことを見つけ、全力で付き合うべしという暗黙の理想みたいなものを世の中に強く感じるのだけれど

大人が考える
「ほど良さ」を超えると皆イライラし始めることもこの12年で見てきている。
私もそうだったと思う。

親からしてもらった感謝に起因するものと
こうするべき、という呪縛。

親だから付き合ってあげなきゃいけない、そんなことはないと思う。

家族だから、家族だからこそ
みんなが心地よく暮らすために本音を言い合って話し合って譲ったり諦めたりそれのどこが良くないのか。

子供時代にしかできないことはたくさんあるので、それを考えるとこどもを優先することは増えるのだけれどチームの一員であるという意識は子供を優先してばかりでは育たないなと感じる。
家族の一員であること、それは社会の一員であるこという意識に繋がっていくと思うけれどもどうなのかなぁ…まだ、分からない。

ただ、話すことで自分がどこまでやりたいか大人も子供も確かめられるし、遠征や合宿に行かせてもらえることが当たり前ではないことを息子は何年かかけて学んだように思う。

6年生、最後の県予選で優勝したとき
スピーチで最初に、その日戦った対戦相手に感謝を述べ、次にコーチと親への感謝を述べた彼は

私の知っている彼ではなかった。

どこまでも変わらず自分中心だけれど、うちが甘えられる場所であるだけで私が思っているよりずっと、周りに目を向けているのかもしれないと思った。


やりたいことをやりたいとまず言葉にしてみたらどうだろう。 
それでもそんなの関係ねーとばかりに、
自分のやりたいことに向かって走っていくかもしれない。
それでも、我慢の我慢にはならないのではないのかなぁ。

子供や家族に知ってもらうだけでも、心地よさには一歩近づくように思う。

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