宗教に苦しむ人たちへ 信じるべきか疑うべきか
私たちは自分で経験したり、自分が理解できていない、他人の言論や記述はまずは疑うべきだ。 だが、疑うとは、必ず偽、誤であると思い込むのとは明らかに違う。それだと「信仰」と変わらない。
「信じる者」は、何かの宗教や思想を信じたその時から、指導者の言葉、記述を、「神の言葉」「正」として「信じ」、反対の主張は「敵の言葉」「偽」と信じるのだから。
まずは伝えられた言葉だけを疑って、あとで正誤を「判断する」べきなのだ。これは本当にめんどくさい。ずっとこれを続けるのは、時間も浪費するし、脳も疲れる。だが、疑うのをやめては絶対にいけない。
真実を伝えているつもりが、誤解している可能性、偽情報を信じ込んでいる可能性、そしてやはり、無意識に都合よく情報をつなぎ合わせ、その人が望む真実に、加工されて他者に伝えられている場合も多い。そんな伝言ゲームの繰り返しが、真実であり、正である可能性とはいかほどであろうか?
そして、人類の何千年に及ぶ歴史において、現在の事象は、過去の記録、行動、結果、をもとに判断されるのだろうから、正誤を判断するなら、常にすべてを疑うしかないのは当然であろう。
しかも、ほとんどの物事は変化するのだから、ついこの間、間違いなく「正」であると、過去に自分で理解し確認した事象さえ、時には「誤」に変化していることも珍しくはないだろう。
理想は、生で自分が確認できない情報はすべて、AIに記録され、AIによって伝えられるべきだろう。つまり、情報から伝達者の意図や意思、誤解、誤認識を完全に消し去るのである。これで少なくとも、人の伝達者からは絶対に避けられない、意図的な、あるいは不作為の誤は、なくなる。
残るはAIが記録できかった過去の歴史的事象に関する正、誤であり、それが元となった現在の情報の取り扱いであろう。
すべてを疑えという意味においてのみ、私はクリシュナムルティの思想や言葉を正と判断する。
だが決して彼がすべてにおいて正しいとか、神とか、聖とかいう、何の意味もない言葉で表すべき人物だとは絶対に思わない。
ただ、彼を「霊的」な世界教師の器としようとした、仮に悪意はなくとも、偏執的で、オカルト的で、非科学的で、愚かで、非論理的な人たちの妄念から、己の思考、思想、意思、努力で、自らを開放し、あらゆる宗教から自由になった思想家であるのは間違いないだろう。
もちろん、誰も彼の真似をする必要はない。あまりに壮絶な人生だったから。だが、誰でもきっと、心から望むならば、いかなる宗教の軛からも、己を解き放てるはずだ。
少なくとも、それが本当にあなたには必要なら、あなた自身で、あなた自身の宗教を作れるはずだ。(そしてそれは、純粋な意味で、あなただけの宗教であり、そうであるべきなのだ)
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