偽情報が真になる恐怖
これは今回の首相官邸による修正への批判ではなく、おそらく、もうずっと前から、この手の些細な修正、加工は、すでに行われていた気がして、今更ながらあまりにも高度で、お手軽になった、画像修正技術や編集技術など、さまざまなデジタル技術の進化に対する、率直な恐怖である。
今回は、未修正の報道写真と比較できたから、すぐにわかって指摘されているのだろうが。
国家機関や、大手企業が、公表する画像で、この手の編集を好きなようにやりだしたら、大げさでもなんでもなく北朝鮮やロシアに近づいていくと思うが、真面目に考えるまでもなく、皇室関係のメディア発表の写真なんかもそうだろうし、そもそもネットで出回っているどの写真が非加工、未修正、無編集かなど、ずっと前から証明する手段が、なくなっているのではないのか? 写真における意図的な切り抜きは当然だが、部分的フェイクなら、いくらでもすでにあったのではないか、そう感じてしまう。
デジタル写真を撮影し、データとして記録する時点で、すでに加工、修正する技術もあるだろうから。日付なども証明にはならないだろう。
当然それは、あらゆる報道機関による記録映像でも、修正される可能性があるのだろう。たとえば裁判で使われるような監視カメラの記録映像が、編集され、修正され出回れば、一般国民はそれを信じるしかないだろう。
あるいは、ミサイルがどこに着弾したか、していないか、どちらが先に攻撃したのか、禁止区域に侵入した、してない、病院の地下に武器庫があった、なかった、などなど様々な物事の、正否を判断する根拠となる証拠写真だって、そこに存在していない物さえ追加したり、あるものを取り除けるデジタル加工、修正、あるいは部分的な画像交換、つぎはぎ修正、なども考えたら、常に疑うしかなくなる。
もちろんそれは、映像だけでなく、音声でも同じである。事実を簡単に記録するためのデジタル技術のはずが、フェイクを流出させるだけでなく、フェイクを真実にしてしまう事を、もはや誰も防げないのではないか? どれだけ厳しい倫理規定を持つ報道機関でさえ、撮影者、それを記事のため、報道のため提出する者の意思や意図までは、管理できると思えない。
本当に何も信じられない、信じるという言葉など、そもそも無意味になる、リアルとフェイクが、常時重なり合っていて、明確に切り分けることさえ難しくなる時代に、すでになってしまったのかもしれない。
当時は、ストーリーに熱中したが、あまりシリアスに考えなかった、Robotics Notes で描写されていた、AR仮想現実で書き換えられた世界が、報道を通じて拡散され、そこにいない多くの市民が信じてしまう恐怖さえ、思い出してしまったのである。
ただVRの中に限定された世界なら、そもそもリアルである必要がないので、どれだけ変化し、書き換わろうが、実害などおそらく無いが、リアルとフェイクがデジタル情報を通じて、混在する現実世界は、たまらなく恐ろしいと、私は感じてしまう。