被害者は、違う事象における加害者にもなりえる
当然、ある事件の被害者は、その被害を受けた事象の発信によっては、新たな加害者になり得る。
事件と、その事件を扱う映像作品は、(どんな媒体であれ、どんな形式であれ)明確に異なる事象だからだ。
この2つを切り離さないで、裁判で認定された被害を受けたことまで否定されたなら、それは二次被害になる。まさしく告発者であった被害者を追い詰めることになる。その告発が評価されることで、与えられた名誉、栄誉は守られるべきだろう。
一方である事件の被害者だからといって、他の事象における加害者であることの責任から逃がれれるわけがない。
そもそも、映画について、それほど難しいことは何も要求されていなかったのだから。
公益性がどれだけ高かろうが、裁判以外では公開しないと約束して許可された映像を、商業作品で使用することは、どれだけその映画に価値があろうが、明確な過ちであろう。
公益性がどれだけ高かろうが、人命に関わる理由がない限り、無断で撮影された映像や音声を、全世界でばらまかれることを喜ぶ人間は、そういないだろう。(ましてそれが、性被害というデリケートすぎる犯罪、トラブルに関連する映像や音声なら)
そして何よりも事件の担当弁護士にとっては、自分が弁護した人間が、手に入れた映像や音声を無許可で商業作品に使用したのを知っていても、そのまま黙認するなら、その弁護士の職業倫理が問われるだろう。
それくらいの倫理違反なら平気な弁護士ではなく、人権保護への高い職業倫理を持っていたことを、私が被害者なら誇りに思うだろう。だからこそ、自分への弁護の信頼が保たれる、私ならそう考えるからだ。
指摘されても修正せず、あえて映画を公開したのだから、もはや確信犯としかいいようがなく、人権問題だと弁護士が批判するのは当然だろう。
弁護士たちの目的は、何度も言われているように、映画の内容そのものへの批判でも、必要な箇所を正しく修正された映像の配給中止でもない。ただ、他者の音声や映像という個人情報を、当人や権利者の許可無く無断で映画に使用しないでという、真っ当すぎる要望である。
つくづく思ったのは、もしかしたら、西洋社会の倫理観は、個人のプライバシーは公益性と天秤にかけられた時、すごく低く扱われるのかもしれない。
あるいは、彼らにとってのプライバシーの考え方は、日本人とは違うのかもしれない。
だが会見場にいた海外記者の誰であれ、もしも自分の仕事上の会話、電話を盗聴されただけでなく、あるいはたまたま写っていた監視カメラ映像を、公益性があるからという理由だけで、全世界に公開され話題になるのが約束されていた映画に勝手に使用され納得できるのかは、誠に疑問だ。
私達は、結局自己に置き換え考えないで、公益性を個人のプライバシーより優先させがちなことは多々あるだろう
(公益性と言いながら、海外記者たちの、そのような映画が、修正されず公開されることへの援護、期待とも思える質問は、すべからく公表することが最善と考えるのだろう記者らしい思考であり、わかりやすい善悪ドラマがもたらす興奮への期待にも正直思えてしまったのだが)
自己弁護も兼ねるが、少なくともこの場合プライバシーを侵害される、された可能性のある人たちは、性加害者でも、他者のプライバシーを散々暴いてきたメディア関係者でも、政界の大物でも、著名言論人でもない。
立場の違いは、公益性と個人のプライバシーを考えるうえでとても重要であろうと、私は思う。こういった、一般市民のプライバシーこそ守られるべきなのに、それが商業的理由で、ないがしろにされがちな社会が、現実の資本主義社会ではないだろうか。(もちろん国家が民衆を監視し、プライバシーを侵害する可能性も同じくらい危険だが。民間による、営利目的のプライバシー侵害のほうが、自分なら嫌かもしれない)