民族性、宗教性の共有と選択
これは個人的哲学であるのは最初に断っておく。つまり、他者に強制したいとか、みんなそう思うべきだとは言わない。ただ、そうであってほしいし、そう考える人が増えて欲しいと私という個体は考えているだけだ。
世界には多様な人種があり、民族の歴史、宗教、生活習慣がある。それはわかっている。一方で、人類という種族を考える。人類が生きていく上での大きなルールが必要だ。それはやはり、民族ごとの違いとか、民族の宗教がとか、民族の多様性とかいう言葉で、私個人としては片付けるべきじゃないと思う。
民族性を固有のものと考えず、各民族の専売特許だとは思わず、全人類で民族性を共有すべきだろう。つまり、開かれた民族性だ。
私は無神論者であり、無宗教(特定の宗派に属さない)主義者だけど、各宗教に、たしかにこれは人類として共有できる教えや、考えがあるのは、理解している。だが、それは、その宗教固有のものと考える必要がないのだ。
いいものは、人類のルールとして(あるいは人類全体がこれから目指していくべき規範でもいい。)取り込んでいけばいい。それを宗教や神の名で語る必要がないだけだ。其の宗教に基づく民族の専売特許にする必要もなければ、その考え方を人類が共有するのに、その宗教に入信する必要など無い。
これは、民族の風習にも言える。例えば、どれだけそれがその民族にとって伝統的な所作、生活習慣であっても、今の私達が、人間の生贄を自然に捧げる宗教儀式をおそらく、誰もが許さないように、各民族が、ただ古くからの慣習や、その部族だけにとっては問題ない行為であっても、人類全体として見れば、あるいはその国家全体としてみれば、それはいい加減やめてもらえないか、無理ではないのか、という民族性はたくさんあるはずだ。
無理やり辞めろではないが、自分たちの民族的伝統を守ろうとして、固執するのは、本当にその民族に属する各個人にとって幸せなことなのか?だから私自身は、全ての民族性はまず、民族固有のものという考えを捨てるべきだと思う。そしていいものがあれば、人類という種族が得た特性の一部だと考える。いい、悪いを決めるのは何か。それがものすごく難しいのは当然だろうが、少なくとも必要なのは、人類族としての、民族性や宗教性を越えた対話だ。
日本国憲法に、おける国家としての武力放棄の理念は夢物語ではない。別に日本人が偉いわけでも、それを考えた人が立派なわけでもない。ただ、それは人類が共有すべき、明確な方向性を示していて、だからこそ、日本人とか日本国とか言う名前を切り離してでも、世界に伝えていくべき、一つの指針である。それを、たまたま日本が、少なくとも戦後は守ってきたわけだ。
その価値を、民族性とか日本という国家はという、より下のカテゴリーで考えないがしろにしようとする人類を私はそれがどんな国家の民であれ、どんな宗教思想であれ、どんな民族であれ、残念なことで、偏狭なことだと、考えざるを得ない。
日本人のホコリではない。たまたま日本という国家がそれを一時期、たとえ押し付けられたものであれ、選んだものであれ、獲得していて、それを守ることは人類の未来につながると思う。(何も守ったから偉いとか優れているわけではもちろんない。人類として守るべきだから、守るだけだ)
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