病んだのではなく、擦り減っているだけ
明らかに今の「生きづらい」人達をむしろ追い詰めるだけでなく、抜け出せなくしているのは、実は様々な精神疾患等の、チェックテストと、様々な横文字の病名をばらまき断定する人たちであろう。もちろん何でも例外がある。だが、大人になってから気づいた、チェックテストでわかった。診断を受けた。それでやっと◯◯◯◯だとわかりました。という人たちの多くが実際のところは、それは先天的なものではないと私は思っている。
多くの場合、これは未知の物事に直面した時、意識した時に、人間が感じる不安や疲労感だ。
もしも、それが本当に貴方の生まれながら持っている何かなら、それに病名なんてつけないで、それが自分の特性だと思っていればいい。私が絶対におかしいと思うのは、この手のチェックテストの内容である。多分、誰でも気分次第で、何らかの病気=疾患の可能性があるという診断を受けることになるだろう。そして、あなたは自分の病名がわかってほっとする。
そうか、俺は私は病気だったのか!? 生まれつきそうなのだ! なんだ、それなら仕方がないと考える。 だが多分、Noteに何か書いているほとんどの大人たちが、疲れている時や参った時に、この手のチェックテストなりを受けると、間違いなく俺も私もと、何らかの病名が与えられることだろう。
あるいは、それは人生の一時期、過渡期、庇護される立場から成人へとなり、自分の人生を自分で考えなければいけなくなった時、感じる生きづらさである。
そりゃ、普通は失敗や、想定外の連続だ。TVドラマのような職場はどこにもない。アニメのようなバイト環境があったと知っても、それだけで生きていけるわけじゃない。将来もとっても不安だ、気が滅入る。 それが普通なのだ。それが人間なのだ。それが大人になるということだ。成人したということだ。
現代社会の病ではなく、すでに現代社会に生きる人達が持っている特性とすべきものに、固有の名前をつけて「病気」だと言って、あなた達からお金を巻き上げる人たちを私は個人的に、絶対に信用しない。
生きづらさは、社会的課題として解決されるべきである。だが、生きづらさビジネスにすがるのは、やめたほうがいい。貴方を生きづらくしているものに大人なら反旗を翻せ。もしもそれを病気だと言うなら、貴方を病気にしたのは何か、自分で考えて、その対象と向き合うなり、避けるなりするしかない。