「主君『押込』の構造」笠谷和比古:主君より「御家」

江戸時代の大名諸家でおきた主君「押込」の問題をとりあげたい。
それは家老・重臣たちが主君を幽閉し、強制的に隠居―廃位させるものである。
それ故に「押込隠居」とも呼ばれるのである。

この問題はもっぱら時代劇にみられるようなに興味本位に、多くは悪家老による御家乗っ取りという図式で語られてきた。
この問題がアカデミックな観点から取り上げられることなく放置されてきたのは、一連の事態が秘密裏に進行し、その解明には多くの場合、根拠の不確かな資料によらなければならないという性格による。
それ以上に大きな理由として、武家社会のイメージというものが強固に存在し、そこから来る先入観が研究を妨げていた。
つまり、近世武家社会における君臣間の上下の秩序は揺ぎなく、厳然として存在し、仮に主君「押込」なるものがおこったとしても、それは秘密裏に不法に処理されていく陰謀事件に過ぎないもので、あくまで例外的な病理現象であると、感じられていた。

本書では、主君「押込」は家臣団の手で、主君を強制的に隠居させるものであるから、その本性において主君廃立行為としての性格をもち、幕藩体制論・近世国正論を考察するには避けて通れない問題として取り上げている。

本書では、
阿波蜂須賀家の君臣抗争、
宝暦元年岡崎水野家事件、
宝暦四年旗本嶋田直次郎一件、
宝暦五年加納安藤家の騒動、
正保三年古田騒動、
万治三年伊達綱宗隠居事件、
元禄八年丸岡本多騒動、
宝暦七年秋田騒動、
安永九年上山松平家の内訌
文久元年黒羽大関家事件
を実例で紹介している。

実例のまとめとして、

主君「押込」行為とは、大名家において悪玉・暴君を家臣団(家老・重臣層)の手で監禁し、「再出動」のための猶予期間を置いたのち、改心困難と見做された時は隠居せしめ、実子を含む新主君を擁立していく主君廃立行為であった-そのように結論づけられるであろう。

ただし、時代的推移の観点からすれば、さらに以下のような付言を要するであろう。
即ち、近世初期の主君「押込」行為はもっと直接的な廃位強制であり、暗殺とほとんど同義であるような粗暴な形態のものであったようである。
浜田古田家の事例はそのようなあり方を示している。
これが近世社会の進展の中で次第に変貌を遂げていったものと思われる。
特に注目すべきは「再出動」の概念が組み込まれている点であり、行状の改善・改心を条件として君位への復帰の可能性を残すために、隠居猶予期間が長期にわたって設定されることになった。
これによって主君「押込」行為は単純な主君廃立行為ではなくなり、むしろ悪玉・暴君に改心を求める懲罰的監禁・謹慎処分という方向に重心移動をなしつつあったと思われる。
そして、君臣間の協約にによって君位への復帰もあれば、強制隠居にも移行しうるという柔軟性を備えたものに変貌しているのである。
・・
しかしながら右の変貌が、君臣間の権力関係において有する主君「押込」行為の威力の減衰を意味するものでないのは勿論である。それは初期の粗暴で短絡的な内容・形態を有するものから、理性的で制度的安定を高めたものへの成熟化の所産として理解されるべきである。

(主君「押込」の構造、以下同じ)

幕藩体制の維持をはかる幕府の対応はどうであったのか。
この慣行の体制的是認には複雑な道程があったが、
幕府は、宝暦年間に発生した一連の主君「押込」事件の処置と判決宣告を通じて、この家臣団の主導の下に執行される主君「押込」の「正当性」を事実上表明するに至ったのである。
これは主君「押込」慣行にとっては、その体制的な確立の画期をなしたものであった。

この背景として著者はつぎのように言っている。

このような君臣秩序の変容を考える上で見逃せないのは、近世も寛文・延宝期(1661~80)に入ってみられる「家」を基軸に構成していく秩序観念の形成の問題であろう。

主従関係は一代限りの属人的要素を希薄にし、永代の属門的関係に大きく比重を移していく。
いわゆる「藩政の確立」に伴って、給人の地方知行は個別的な自由な支配を喪ない、藩権力による一元支配に服するようになっていくが、それは同時に給人が大名の「家中」として包摂されていく過程でもあり、その中の実力者たちは大名家の「家老」として位置づけられていく。
こうして大名以下の武士身分の者の諸権力は、大名の「家」の中に統合・収斂されていき、大名以下の武士身分の者にとってその存在の一切は、この大名の「家」の存続に依存するという体制が一般的となり、ここに「家」を基軸とする秩序が形成されていくのである。

この新しい秩序は、当然にもそれに照応した思想を形成していく。
その思想の核心は「御家」至上主義とでも表現されるものである。
即ち、大名の「御家」の下に包摂された武士身分の者にとって、第一義的な価値とは「御家」そのものの存続であり、自余のものは-大名主君の存在価値も含めて-これに従属させられるとするところである。
ここからして主従制度における「忠義」の意義が変容していく。
家臣の忠義の対象は特定の大名主君であるよりも、その主君が当主である大名の「御家」に向けられていくのである。
主君は依然として重く貴いものであるが、それでも「御家」の存続にとって不都合である時には除去されねばならない。
これは「御家」の存続に責任を負う家老・重臣の義務である。
これが「御家」の思想によって聖化された主君「押込」慣行の姿であったといえよう。

(同上)

引用文中
『いわゆる「藩政の確立」に伴って、給人の地方知行は個別的な自由な支配を喪ない、藩権力による一元支配に服するようになっていく』
とは、つぎのことを指している。

給人は平安時代には年給を賜った人で、鎌倉時代以降、幕府や荘園(しょうえん)領主から所領の恩給や給田を受けた人。戦国時代から江戸時代には、旗本や陪臣のうち俸禄(ほうろく)として知行地(ちぎょうち)を与えられた人をいい、地頭(じとう)、知行取り、地方(じかた)取りともいった。

戦国より江戸前期の給人は、知行地および農民を直接支配し、年貢徴収、農民使役、処罰権を保持し、ときには知行地に屋敷を構えて手作り経営を行うものもいた。この知行形態を地方知行という。

給人の支配権の強さは大名の領内支配権を弱めるため、藩政の確立を目ざす大名の多くは、一村を数名の給人に分割して給付したり(相給(あいきゅう)という)、給人の支配権をしだいに剥奪(はくだつ)して大名の支配権を強化し、さらに知行地を召し上げて家臣には俸禄として蔵米(くらまい)を与えるという蔵米知行に移行させた。

(日本大百科全書より)

ここでいう藩権力による一元支配に移行していったとは、家臣の土地支配を奪い、代りに蔵米を俸禄として与えるようにしたことである。
ここに大きな転機がおきる。
そして「御家」が出てくる。
今でも企業における内紛は「御家騒動」といわれている。
日本人の集団主義はここから始まっているようだ。

さらに「昭和天皇独白録」には
「私が主戦論を抑えたならば、(略)国内の与論は必ず沸騰し、クーデターが起こったであろう」と天皇の言葉を述べている。

そして「昭和天皇独白録」は(注)としてつぎの文章を加筆している。
(先の発言に加え)ジョン・ガンサーの「マッカーサーの謎」に奇妙なほど一致する一節があるとして
「天皇が初めてマッカーサー元帥と会見したとき、(略)
『もしわたしが戦争に反対したり、平和の努力をやったりしたならば、国民はわたしを精神病院か何かにいれて、戦争が終わるまで、そこに押しこめておいたにちがいない』と語った。」

戦前の軍部でもリーダーよりも組織の存続を第一に考えていた話である。



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