「君が君で君だ」:誰にとっての愛なのか?
何がなんだか分からない――。
極端な(?)愛のあり方を描いた映画でした。
映画の主人公である三人の男たちは、カラオケ店で働いていた韓国人の女の子「ヨンソン」に熱狂し、十年間ソンの一挙一動すべてを見守りつづけます。
いわゆる“ストーカー行為”。いや、ただならぬ熱狂愛?(※映画パンフレットのインタビューで、ソンを演じたキム・コッピが話していましたが、これは決してストーカーを肯定する映画ではないそうです)
しかし、彼らはソンを守る「兵士」を名乗り、ソンを見守る国をつくって、ただただその世界の日常を生きている。
いちばん印象に残るのが、尾崎豊がソンの髪の毛を食べるシーン。
私は正直に言って「気持ち悪い」と感じましたが、それはあくまでもYOU演じる星野さんの言葉で言えば「中途半端」な私の反応です。笑
私は人を愛する感覚が分からないからこそ、彼ら三人の熱狂には共感できなかったのですが、それは理解できないだけかもしれません。
私の友人(男の子)は、満足気な顔をして、「登場人物みんなに共感できる部分がある」と話していました。
映画のコピーは「その愛は純情か、それとも異常か」。
この映画は個々人の「愛」についての微妙な感覚を問うているのかもしれません。
ーー
私が興味深いなあと思ったのは、三人の男たちが、ソンを見守るという目的を持って一致団結し、お互いに支え合っていたにもかかわらず、結果的には三者三様の変容を遂げていたことでした。
ブラピは、ソンへの思いを抑えることができず追いかけはじめ、結果的には、好きかどうかはどうでもいいレベルに「ソンを追いかけること」そのものに熱中していたようでした。
尾崎豊は最初はソンのことが好きなわけではなかったけれど、ソンを追いかけるなかで、ソンに乗り移る感覚を覚え、好きになっていったようにみえました。
坂本龍馬は最初から最後までソンが好きだったけれど、だからこそ、永遠に一方通行な思いをどこかで満たす必要があった。だから、あの“国”をつくったのではないでしょうか。
三人の男たちにとって、ソンへの愛は、自分たちが生きていくための支えになっていたように思います。
「メゾン・ド・ヒミコ」という作品の、オダギリジョー演じる主人公のせりふ、「生きていくための欲望がほしい」という言葉が思い出されました。
彼ら三人の愛は純愛でありながら、あくまでも自分たちが生きていくために必要な愛だった。ソンのための愛ではなかったのではないか、と思いました。(何が違うのかは考え中です……。)
この「答えのない」「極端なまでの」三人の愛し方自体が、「愛とはなにか?」という問いを懸命に表現していたように思えました。
花を買って生活に彩りを…