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久遠寺その1(身延町)

これは昨年の秋の話になる。11月に私は仕事の都合で米国に行ってきた。海外旅行の経験自体は何回かあるが、米国は初めてでそれはそれなりに良い経験であった。

しかし、異国を旅した後、「異国で浴びた空気」を日本の神聖な温泉で清めたいという謎の思いにかられて、帰国のなんと翌日(幸い時差ボケがほとんどなかった)私はどこでもいいから温泉に入りたい、と車を走らせた。行く地は身延山。日蓮宗の総本山たる久遠寺の所在する霊地である。

身延山へはかねてより建設が進められていた中部横断自動車道の双葉JCT(中央道)と新清水JCT(新東名)の区間が2021年に全線開通し、身延山麓にもインターチェンジが設けられた。これによりアクセスは格段に楽になった。

私は中央道双葉JCTから南下し、身延山ICで流出。JR身延線身延駅前を通るなど、身延方面へ南下する経路をたどった。

ただ、この付近はだいぶ前に来たことがあった。

あの時は2016年。前の職場の退職がもう決まっている頃であった。

富士川町内のショッピングセンターで食事をして着いたのが、午後1時頃であった。

ここは身延山久遠寺の最初の入り口たる総門である。

この門は大きな門で、ここは車も通る。乗用車もそうだが、普通に大型バスもここを潜り抜けていく。

ここから表参道はまだまだ先となる。

参道途中にある駐車場(町営・無料)に車を止める。もっと先に車は止められたが、有料になるので、駐車場代をケチってそこから歩いた。

なんてことはない。参道の店を眺めながら少し歩くぐらいだから余裕だ。

平日なのに、結構観光客がいるのが意外だった。

そんなことをしているうちに山門(三門)についた。

これは何とも立派な楼門である。 間口5間、奥行2間、高さ7丈、総欅造り、2階建ての大規模なもので、上階には十六羅漢が安置されているという。ただ、建築物としては近代(明治期)のものである(文化財オンライン参照)。

三門に掛かる「身延山」の扁額は79世日慈上人の筆。

両脇には仁王さんがいるのか(ちょっとよく覚えていない)、草鞋やスニーカーまでもが奉納されていた。

さてさて、それでは壇上に上がるべと参道を歩いていく。

ものすごい階段の話は後にするとして、その脇に何やら銅像が安置されている。

はて誰だろうと思ってみてみると…

南部実長の銅像であるとのこと。

南部実長は鎌倉時代の御家人で、当地の領主(支配者)である。波木井実長ともいう。

日蓮に帰依し、日蓮の晩年の隠遁所としての身延山を寄進した有力な檀越の一人であった。

身延山開基大檀越 南部實長公銅像 山崎朝雲作 日蓮聖人は文永十一年(1274)5月17日、領主南部實長(波木井)公のお招きにより、この身延のお山にお入りになられました。實長公は「今生は實長に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へ」とのお約束どおり、日蓮聖人ご在山の9年間一族をあげてご給仕されました。また、公は「十三里に四方の堺を立て今、日蓮聖人に之を寄附す」との置文をして、身延山を中心とした十三里四方を日蓮聖人に寄附され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められ、永仁五年(1297)9月25日、76歳でお亡くなりになりました。

身延開山の祖とも言える日蓮宗草創期の有力檀那である南部実長ではあるが、日蓮の死後は流派分裂の原因とも言える人物であった。

ただ、その実長と日蓮宗内の僧たちとの論争の中にあった日蓮の「神社崇拝(参詣)の禁止」が非常に興味深い。

いわゆる「神祇不拝」というやつだが、これはどちらかと言えば親鸞のものが有名で、真宗によく知られた教義であったように思っていた。

日蓮宗は法華経の守護者としての八幡大菩薩などの神を曼荼羅に配するわけだし、この日蓮の「神祇不拝」の真偽詳細はよく知りたいと思った。

さて、南部実長の銅像から道に戻ると、思わずツッコミたくなる長い長い長~い階段が…

傍らの看板にはこんなことが書いてある。

このすさまじい石段は、その名も「菩提梯」は287段。日蓮宗の根本経典である法華経を信仰せよ、という「南無妙法蓮華経」の題目7字にちなんで7区画に分けられているというが…

とにかく角度がすごい。山門から伸びる参道から本堂を一直線に結んでいる。

「余裕、余裕♪」と思いたいが、そう若くもない自分。正直かなりきつかった。

なんとかついた。下を振り返ると結構怖い。ここから転げ落ちたら、真っ逆さまじゃないか…

しかし登りきると景色は素晴らしい!

登り切ったところにある御手水が涼し気。

秋も深まる平日の身延山。さあ、参拝だ。

(つづく)

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