旧吉田茂邸(大磯町)
神奈川県は平塚の隣町、中郡大磯町は風光明媚で温暖な気候なゆえ、古くから著名人の別荘が営まれていました。また、明治期に日本に健康増進を目的に海水浴が導入されると、大磯には最初の海水浴場が設営されました。
そんな大磯を愛した一人に、敗戦後に数回にわたって首相を歴任し、戦後日本の礎を築いた吉田茂がいます。
東京出身。
実業家、吉田健三の養子となり、外務省に入省。
敗戦直後の東久邇宮・幣原の両内閣で外相に就任。1946年5月、総選挙(最初の婦人参政権導入後の選挙)で第一党となった日本自由党総裁の鳩山一郎が、組閣の大命降下直前に公職追放にあうと、吉田がその代わりとなり、第一次吉田茂内閣が成立する(帝国憲法下、最後の内閣。最後の大命降下による内閣)。
同年11月3日、日本国憲法公布。
翌年4月に憲法公布による総選挙が実施されたが、与党の自由党は伸び悩み、社会党に第一党の座を譲り、総辞職。
この結果、片山・芦田といった2代続けて中道左派政権が出現するが、長続きせず、1948年、再び吉田にお鉢が回ってくる。
少数与党でスタートした第二次吉田内閣は、翌年の総選挙で大勝し、絶対過半数を獲得。
55年体制の足掛かりとも言える安定した保守政権が誕生。第3次内閣を組織する。
この内閣で日本は1951年にサンフランシスコでの講和会議で、太平洋戦争で戦った連合国のうち、ソ連や中国など東側諸国を除く48か国との単独講和が実現。
日本はこれにて連合国による占領を脱し、主権を回復。新生「日本国」としての第一歩を歩みだしたのだ。
なお、同日、日米安全保障条約に吉田はサインする。
吉田による政治は、枝葉を見ればいろいろ論点はあるだろう。
だが、大筋を見れば日本がこの時期に吉田のような責任感あるリーダーシップを発揮した人物が首相であったのは幸運であったとしか言いようがない。
同時に彼が発掘した池田勇人、佐藤栄作といった政治家らは、この後の60年代、70年代の日本を引っ張り、日本の高度経済成長を演出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そんな偉大なる戦後の名政治家は、大磯をこよなく愛した。
いま、大磯の城山近くには、戦中からその死去まで彼が暮らした旧宅が残されている。
惜しいかな母屋は、2009年に失火により焼失した。
現在は庭園や門、七賢堂などが残されているが、火災の後、神奈川県や大磯町が主体となり、神奈川県立城山公園・旧吉田茂邸地区として公開されるようになった。
肝心の母屋は再建中である。
ちなみに訪問日は昨年のシルバーウィーク。
予定では、もう再建工事は終わっている頃かな?
近いうちにまた行ってみる予定。
大磯には初代内閣総理大臣・伊藤博文の別荘もあった(滄浪閣)。
そこにあった三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允を祀る四賢堂は、やがて伊藤の死後、伊藤を加えて、五賢堂となり、1960年に吉田邸に移されてその際に西園寺公望が加えられ、さらに吉田の死後に吉田が加わって現在は七賢堂となった。
定期的に開扉が行われているようだ。
左から吉田茂、岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允、伊藤博文。
そして西園寺公望。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
神奈川と吉田のエピソードは大磯だけではない。
例えば、横浜の戸塚付近の国道1号線バイパス(戸塚道路)には、「ワンマン道路」の通称がある。
これは大磯から東京へ向かう吉田茂の車が、戸塚駅前の開かずの踏切の渋滞にたぶたび巻き込まれ、怒った吉田が建設を指示したからだという。
吉田は傲慢不遜で、口が悪く、失言も多かった。
メディアはこぞって吉田の「ワンマン」っぷりを批判し、風刺の格好の的であった。
一方でふっくらとした体形に葉巻をくわえ、マッカーサーやGHQ相手にまったく動じず、冗談やユーモアが大好きな吉田の姿は、敗戦で打ちのめされた国民に自信を与えた。
なんだかんだ言っても、おそらくこの首相なら任せられる、いやこの首相じゃなきゃ今の日本はダメなんだっていう何かがあったのであろう。
その結果、吉田は歴代最多、5回も内閣を組織している。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
敷地内に建てられた吉田の銅像は、サンフランシスコの方向を向いている。
2015年は安保法制に揺れた1年であった。
吉田の貫いた軽武装、経済重視の方策は、その後の日本を平和主義の経済大国へと導いた。
外交官出身で、軍部による独走や開戦を苦々しく思っていた吉田だったからこそ、再軍備を要求する米国をのらりくらりとかわして、軽武装、経済重視へと導けたのであろう。
その仕事はきっと大変なもので、その駆け引きの苦労をうかがい知ることはできないが、そのおかげで日本は朝鮮戦争にも巻き込まれずに、ここまで平和で安定的な国家を歩むことができたのだ。
吉田と同じように一度、退陣してから、再登板するという経歴をたどった安倍晋三首相。
彼は吉田茂の事績をどう考えるのであろうか。
わかっていることは、誰ももう日本人の「戦死」なんていう事態には直面したくないということだ。
安倍首相には、是非ともそんな事態が起こらないようにしてもらいたいものだった。
だって現に吉田はそう望み、そうしたんだから。
(おわり)
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